米沢藩初代藩主の上杉景勝を支えた知勇兼備の重臣が、直江兼続である。


直江兼続は1560年、樋口兼豊の長男として越後に生まれた。幼少の頃から上杉謙信の養子の景勝の近習として仕えた。


1578年に謙信が、後継者を決めずに急死。もう一人の養子である景虎と景勝の間で後継者争いが起こるが、兼続は五歳年長の景勝を側近として支え、見事勝利する。


1582年には、越後の名家である直江家を継ぐが、そのため上杉の家臣たちは、景勝を殿様、兼続を旦那と呼び、以後景勝と兼続の二頭政治となる。


兼続は信濃川の河川工事に力を注ぎ、新潟平野を現在の米所にする基礎を造った。


本能寺の変で信長が倒れ、豊臣秀吉が台頭すると、兼続は小田原征伐に従軍。八王子城を陥落させる活躍を見せる。


また朝鮮出兵でも景勝と従軍して活躍。秀吉は景勝に会津120万石を与えるとともに、兼続に破格の出羽米沢30万石を与えた。


しかし1598年、秀吉が死去、翌年に五大老の前田利家が亡くなると、徳川家康の専横が目立ち始める。


東軍と西軍に別れて対立する不穏な状況の中、東北制覇を狙う景勝と兼続は、会津で軍備を増強し臨戦体制に入る。


この動きに対して家康は、景勝に上洛を要請。景勝が拒否すると家康は弁明の使者を送るよう命じる。すると兼続は家康の要求を拒否する書簡、後に「直江状」と言われる返書で家康を激怒させた。


その内容は、「我ら田舎の武士が鉄砲や弓矢を揃えるのは、上方の武士が茶器などの『人たらし道具』を持つのと同じで、別に気にされることはない。」といった人を食ったものであった。


関ヶ原の戦いの翌年、兼続は景勝とともに江戸の家康に謝罪に行く。その時、兼続は家康の前で「内府様にお手向かいした責めは、この兼続一人でございますれば、如何様にもご処断くだされ」と堂々と述べたという。


結局上杉家は30万石に減封されるが、景勝が初代米沢藩主となり、幕末まで存続する。兼続は1620年、江戸において60歳で亡くなった。


 

 


兼続は文化人・蔵書家としても有名で、朝鮮出兵の際、肥前名護屋城に滞陣し、わずか2ヶ月間で300巻の医学書を書写させたという。


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