斎藤利三は1534年、斎藤利賢の次男として美濃に生まれた。


明智光秀や、四国の長宗我部元親とも姻戚関係があったと言われている。そのため、最近では本能寺の変のキーマンが、利三ではないかという研究が発表されている。


その点については後に詳しく述べるとして、利三は最初、美濃三人衆の一人・稲葉一鉄に仕える。



武勇に優れ他家にも知られる存在となるが、やがて稲葉家の処遇の悪さに不満を持ち、親戚でもある光秀に仕えるようになる。


光秀には重用されるが、特に信長の四国対策では長宗我部氏との親戚関係を活用して活躍。


畿内で三好氏と対立したため、四国から阿波三好氏を追放するという信長の方針から、利三が長宗我部元親と連携。元親が四国で勢力を伸ばし、成果をあげる。


その結果光秀の丹波平定後、利三は1万石を与えられて丹波黒井城主となった。


しかし、阿波三好氏が降伏したことから信長は、1582年の本能寺の変の直前、四国統治の方針を急転換し、長宗我部元親討伐を命じる。


これには光秀も利三も面目丸潰れで、元親に申し訳がたたず苦悩する。近年、この時の利三と元親がやりとりした書状が発見され発表された。


それによると元親は、四国侵攻を計画していた信長の命令に従い服従する意向を示している。


しかし信長の方針は変わらず本能寺の変の翌日6月3日には予定通り長宗我部征伐が決行される手筈になっていた。


このため光秀と利三が苦悩の末、謀叛を図った可能性が充分に考えられる。


1582年、利三は本能寺の変の後、引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、やがて力尽き敗走する。そして琵琶湖沿岸の堅田で捕縛された。


暑さのため衰弱していたところを捕らえられたという。秀吉の命令で京都六条河原で斬首となった。享年49歳であった。


利三の首は六条河原に晒されたが、友人の絵師の海北友松により、京都市左京区の真正極楽寺に葬られた。


友松は京都祇園の建仁寺の襖絵で有名だが、利三は武芸に優れただけではなく、絵画や連歌なども嗜む風流人で、交友関係も広かったようである。


そのため娘の福は、のちの第三代将軍徳川家光の乳母となり、大奥を作りあげたといわれる春日局である。また息子も幕臣に召し抱えられた。


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