織田信忠は1557年、織田信長と母生駒氏の嫡男として生まれた。

幼名は奇妙丸、通称を菅九郎といった。


1572年、岐阜城において元服し近江小谷城を攻めたのが初陣となった。


信長に従って石山合戦、1574年の伊勢長島攻めと各地を転戦した。


信長が安土城を築いてそこに移ると岐阜城主となり、美濃、尾張の二カ国の支配をまかされている。


信忠は信長に似て勇猛果敢なうえに、戦に決して情け容赦はしなかった。


1582年、武田勝頼討伐のときには先鋒の大将として甲斐に攻め入り戦功をあげた。


織田軍の侵攻の始まった2月に浅間山が噴火。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており、武田軍は戦う前から大いに動揺し、信忠は大勝利する。


そして武田軍の残党を匿った恵林寺を攻め,長老の快川紹喜をはじめ僧侶百五十人を焼き殺したことは特に有名である。


一方信長は、朝廷からのすべての官職を返上・辞退する。そして正親町天皇に、以前から懇意にしてきた誠仁親王への譲位を迫っていた。


また正親町天皇の「上御所」に対して、誠仁親王へ信長が献上した二条新御所が「下御所」と呼ばれるなど、朝廷内は親信長派と反信長派に二分されていた。


このような状況下で、武田氏を滅ぼし、都へ凱旋した信忠は数百の兵とともに、妙覚寺に宿泊する。


後継ぎの活躍に、信長が大いに喜んだことは言うまでもない。


浅井、朝倉氏に続き武田氏を倒し「信長包囲網」は消え去ったと考えた信長は、気を緩めたのかも知れない。


しかし、本当の包囲網はもっと身近に迫っていたのである。


本能寺では6月1日、信長が公卿たちを集め大茶会を開催した。


新しく発見された資料によれば、この席で信長は公卿たちに、暦を尾張式の暦に変更する事を要求したとされている。


朝廷と信長の間を取り持っていた明智光秀が、このような事態に苦悶していたことは想像に難くない。


そして運命の6月2日未明、本能寺が明智光秀軍一万に囲まれたことを知った信忠は、救援に馳せつけた。


しかし時すでに遅く本能寺が焼け落ち、信長が自害したとの報を得て二条新御所に入り、 誠仁親王を助け逃がしたあとその場で奮戦する。


だが多勢に無勢で力つき、父のあとを追うように自害した。享年26歳であった。


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