足利義満は1358年、室町幕府第2代将軍義詮の子として生まれる。尊氏の孫になる。

義満は幼少の頃から豪胆で、摂津に泊まった際に須磨あたりの景色がよいことを気に入り、

「ここの景色をお前達が担いで持って帰れ」と家臣らに命じ、皆を驚かせた。

1368年、父義詮が病没し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継ぐことになる。

当時幕政は、管領の細川頼之をはじめ、足利派の守護大名が執り行っており、義満は権力闘争の中枢で政治を実地で学んでいく。

そして二十歳過ぎの義満は、細川氏と斯波氏を抗争させて、権力の集中を防いだ。このような老練な手法を用いて、有力大名を次々と手なずけ、幕府の権力を高めていった。

さらに義満は、京都室町第に「花の御所」と呼ばれる将軍邸を築き、これにより室町幕府と言われるようになった。

当時、義満のもうひとつの懸案は、朝廷の南北朝間題であったが、大内義弘を使い和睦を進める。

義満は、南朝系の大覚寺統と北朝系の持明院統が、必ず交互に天皇を立てる事を条件に、三種の神器の北朝側への返還を求めた 。

その結果、南朝はこれを飲み、56年におよぶ対立が解決する。しかし実際にはこの約束は守られなかった。

1394年に将軍職を嫡男の義持に譲ったが、義満は同年太政大臣にのぼり、出家はするが実権を持ち続けた。


味方ではあるが脅威でもある大内氏を挑発。大内義弘は兵を挙げ、義満の大軍を相手に奮戦するも討ち取られた。


また義満は倭寇といわれる海賊を取り締まり、明と勘合貿易を開始。皇帝から「日本国王」と認められた。


そしてついに義満は、准三后という天皇にも並ぶ地位まで登りつめた。さらに後円融上皇の没後は朝廷の人事権も掌握し、義満の山荘、金閣寺を事実上の政庁とした。


この時点で義満は、自らが天皇に取って代わろうと本気だったのであろう。


しかし1408年、義満は急逝する。享年51歳。死因については謎のままである。


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