誠仁親王は1552年、正親町天皇の第1皇子として生まれた。 母は内大臣万里小路秀房の娘房子である。


1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。経済的理由から、まだ元服出来ていなかった誠仁親王の元服の儀式を信長が執り行う。


以後、信長は誠仁親王を我が子のように親身になって面倒をみた。


将軍義昭の側近らが、朝倉義景や武田信玄と「信長包囲網」を築くなど画策したため、1574年に信長は義昭を追放し、室町幕府は滅亡した。


1576年に都をはなれ、安土に巨大な城を建設。叡山などの既成勢力との戦いに勝利し、天下統一を目前にした信長は、朝廷との距離をおき始める。


1579年に突然、信長は京都二条の自宅を誠仁親王に献上し「二条新御所」と呼ばせ、信長は本能寺などを宿舎とした。


この二条新御所は、正親町天皇が居住する「上御所」に対して「下御所」と呼ばれるようになる。


そして朝廷内は、親信長派と反信長派に別れ、天皇と親王が対立する構図になっていく。


前関白の近衛前久は鷹狩りなどを通じて信長と親しくなり、前久と対立する関白二条晴良は信長に疎まれていく。


キリスト教宣教師フロイスが1580年、安土城で信長に謁見した時、信長は「私が日本国王であり、天皇に会う必要はない」と言い放っている。


1581年には御所の前で洋式完全武装の馬揃えを行い、正親町天皇をはじめ公卿たちを威嚇した。


そして翌年、本能寺の変が起こるわずか一ヶ月前、ついに信長は正親町天皇に、自分の意のままになる誠仁親王への譲位を迫ったのである。


天皇は即座に拒否するが、これは一大名が、天皇の上に立とうとする前代未聞の行為であった。


さらに近年発見された文書から、本能寺の変の直前に同寺で開催された大茶会で、信長は公卿たちに暦を、尾張式の暦へと変更することを要求していた事が判明した。


信長はまさに自らが天皇に取って変わろうとしていたのだろう。


朝廷と信長の間を取り持っていた明智光秀がこの直後に謀反を起こすが、以上の状況下で、光秀個人の怨みだけで信長を襲ったとは考えにくい。


誠仁親王は1586年、天皇になることもなく35年の生涯を閉じた。


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