朝倉景鏡は1525年頃、朝倉義景の父孝景の弟・景高の子として生まれた。義景の従弟にあたると言われている。


1548年、孝景が亡くなり16歳の義景が家督を継ぐと、8歳年長の景鏡が補佐した。


以後朝倉軍の総大将として一向一揆の鎮静などに義景に代わり出陣することが度々あった事から、義景に重用されていた事がうかがえる。


1565年、室町幕府第13代将軍足利義輝が三好三人衆に暗殺され、弟義昭が朝倉氏の元に身を寄せる。


義昭は朝倉氏の上洛を望んだが、景鏡らの反対で義景は上洛を断念。そのため義昭一向は織田信長の元へ去る。


1568年、信長は義昭を奉じて上洛。義昭は第15代将軍に就任する。信長は朝倉氏にも上洛を求めたが義景は拒否した。


その結果、1570年に織田・徳川連合軍が越前へ攻めいる。この時も景鏡が総大将として指揮を執って出陣している。


この金ヶ崎の戦いでは、浅井長政が信長を裏切り、朝倉氏を支援したため信長は逃げ、朝倉軍は勝利する。


しかしわずか二ヶ月後に姉川の戦いで浅井・朝倉両軍は織田軍に惨敗。

だが、続いての野田城・福島城の戦いでは逆に浅井・朝倉連合軍が信長軍の背後を突いて勝利。


浅井・朝倉軍は比叡山へ逃げ込み、延暦寺天台座主の覚恕が保護する。


この覚恕の行動に激怒した信長は翌1571年に比叡山を焼き討ちし、女性や子供たちまで皆殺しにする。


1573年7月、信長は足利義昭を追放すると、朝倉討伐のため進軍。朝倉軍の武将の首三千余を討ち取る。


府中まで一挙に侵入した織田信長の進軍をみて、景鏡は義景に居城の一乗谷を棄て自領の大野郡の寺に逃れるようすすめる。


この時朝倉景鏡は裏切って寺を包囲し、朝倉義景を自害に追い込み、妻子を捕縛。


そして、朝倉景鏡は義景の首級と、捕縛した母親・高徳院と、妻子・近習らを織田信長に差し出した。こうして景鏡は本領安堵となり、降伏が許され織田家臣となる。


しかし1574年に、越前一向一揆が勃発。景鏡は城を捨てて平泉寺に籠った。

しかし、一揆が迫ると敵に突っ込み景鏡は討死した。


遺児の12歳と6歳の子供たちも、捕らえられて処刑されたという。


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