覚恕は1521年、後奈良天皇と、壬生雅久の娘・伊予局との間に第三皇子として生まれた。

兄は方仁親王、のちの正親町天皇である。


4歳の時、僧となって延暦寺曼殊院門跡において得度した。

そして、1527年、6歳で曼殊院門跡を相続し曼殊院覚恕法親王となった。

和歌や連歌等を好んだようで、常に禁中の御会などには常に出席していたようである。また尊鎮流の書もたしなみ、著書に「覚恕百首」がある。

1570年に覚恕は、比叡山延暦寺、166世・天台座主となる。この時、甲斐の武田信玄からは、祝い品としてり「猿図」が贈られ、現在では国の重要文化財となっている。

1570年、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵している隙をついて、朝倉義景が、織田領の近江坂本に侵攻する。


そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。この森可成の三男が森蘭丸である。


しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、朝倉軍は比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する。


このとき信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが覚恕は応じず、織田氏と対立する朝倉氏の軍兵を公然と匿った。


1571年9月、織田信長は、比叡山の焼き討ちを決行した。


覚恕は事件の数日前、兄の正親町天皇を訪ね、信長対策を相談し、重陽の節句にも参加した。


そのため事件当日は在京しており、難を逃れたが、根本中堂以下全山が攻撃され、比叡山は事実上焼亡した。


事件後、覚恕は織田信長より責任を追及され辞任すると、武田信玄を頼って甲斐へ逃れた。


その後覚恕は、曼殊院に戻り、1573年に朝廷内での行事にも参列。しかしこの年末に発病し名医と言われた竹田定加の診療を受けるが、甲斐なく年明け早々に崩御した。


比叡山の復興は信長の死後、兄の正親町天皇らの尽力により行われた。


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