正親町天皇は1517年、後奈良天皇の第一皇子として生まれる。


1557年、後奈良天皇の崩御に伴って、第106代天皇となった。当時、天皇や公家達は想像を絶する窮乏生活を強いられていた。


1559年に毛利元就から献納を受けたことにより、翌年に即位の礼を2年ぶりにやっと挙げることが出来た。


1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した。


当初信長は、正親町天皇を保護するという大義名分で、京都を制圧。逼迫していた朝廷の財政の立て直しに着手し、見事に回復させた。


しかし、合理主義の信長は、利用価値があるとみると、天皇の権威を用い、室町幕府、本願寺や比叡山延暦寺などの既成勢力を次々と排除していく。


1576年には最後で最大の既成勢力である朝廷から離れ、安土に巨大な城を築く。そして信長は訪れた宣教師フロイスに「自分がこの国の王」である、と宣言している。


1577年、正親町天皇は信長に右大臣を宣下するが、信長は翌年これを辞任。


正親町天皇は「いかようの官にも任」ずる、と信長に関白や大政大臣を再三すすめるが、信長は以後どんな官職も辞退し続けた。


信長のこれら一連の言動に「信長は自分が天皇になろうとした」と考える学者もいる。


1581年2月、信長は京都御所の前で馬揃えを行う。これは完全武装の騎馬武者700名による大デモンストレーションであった。


正親町天皇はじめ居並ぶ公卿たちは、はじめて見る最新の甲冑と武器に度肝を抜かれ、京都の冬は寒いが、恐怖で震え上がったに違いない。


そして、この軍事行進の準備を信長から命じられたのが明智光秀であった。


光秀は朝廷と信長を取り持つ役目についていたが、複雑な心境であっただろう。


この後、正親町天皇と明智光秀にどのような会話を交わしたのかは知るよしがない。


1582年5月、信長はついに正親町天皇に、皇太子の誠仁親王譲位する事を迫る。一大名が天皇に命令するなど前代未聞である。


そしてわずか一か月後の6月2日、明智光秀が本能寺の変で信長を自害に追い込んだ。以前は光秀の怨恨説が主流であったが、現在は黒幕が存在したと考える学者が多い。


正親町天皇は、本能寺の変から四年、天皇に在位し、1593年に77歳で崩御した。


【正親町天皇】ユーチューブ動画

https://youtu.be/aEPkERKe8Yo