二条晴良は1526年、戦国時代の公家として、父二条尹房と九条尚経の娘である母の間に生まれた。1538年には12歳で従三位となる。

しかし戦国時代のため、公卿の窮乏はすさまじく、またやむ終えず戦乱に巻き込まれていく。

父の尹房は、1545年から、次男良豊と共に、周防の大内義隆を頼って山口に滞在していた。

ところが1551年、陶晴賢の反乱「大寧寺の変」に巻き込まれて、父が殺害された。

父に変わって嫡男の晴良が形骸化した朝廷の右大臣、左大臣となり、1548年には関白となる。

しかしライバル近衛前久との権力争いに破れ、1550年には左大臣を、1560年には関白を辞する。

1565年、永禄の変で室町幕府13代将軍足利義輝が、三好三人衆に惨殺される。さらに14代足利義栄も就任してすぐに病死する。

1568年、織田信長に奉じられて上洛した義輝の弟、足利義昭が第15代将軍に就任。

義昭は兄義輝の暗殺に、関白近衛前久が関わったと誤解し、前久を解任して都から追放する。

晴良は義昭の政所頭人摂津晴門らに取り入り、関白に返り咲く。

やがて摂津晴門の計略で、将軍義昭を操り、浅井長政、朝倉義景を主軸にした「信長包囲網」が構築される。

1570年、姉川の戦いで浅井長政が敗北。すると形勢不利とみた晴良は、織田信長と浅井長政・朝倉義景連合軍との調停にのりだし和睦を成立させた。


1573年、晴門らの悪事が暴露され、義昭が信長によって京都を追放され、室町幕府は滅亡する。

やがて晴良も信長から疎んじられるようになり、1578年、二条晴良は関白を辞任し、子の九条兼孝が、関白となる。

翌年1579年、二条晴良は死去。享年54であった。


なお、旧二条家の屋敷は、1582年、明智光秀の本能寺の変の際に、織田信忠が滞在していたため、焼失した。


【二条晴良】ユーチューブ動画

https://youtu.be/JSzP2VQXA-4