近衛前久は1536年天文5年、近衞稙家と慶子との間に嫡男として生まれた。母も名門久我家の出身である。

1541年に元服。足利義輝が第13代室町幕府将軍に就任すると、前久は1554年には関白左大臣となる。

また、行動的な前久は越後の上杉謙信と昵懇となり、越後にも足を運ぶが、謙信に天下統一して朝廷を再興する意志がないと見ると帰京する。

1565年、三好三人衆は二条御所を襲い足利義輝を殺害。しかし、将軍殺害という暴挙に世間の風当たりは強く、三好三人衆は非難を避けるため、第11代将軍の孫である足利義栄を次期将軍に推挙。前久に助けを求める。

義輝の正室は前久の姉であったが、姉の命を救ったことに借りがあったため、前久は三好三人衆が推す足利義栄の14代将軍就任を認めた。しかし、義栄は上洛する事もなく病没。

1568年、義輝の弟、足利義昭は織田信長の助けをかりて上洛、第15代将軍に就任を果たした。義昭は永禄の変以後の前久の不審な行動から、兄の死には前久が関与しているのではと疑い、朝廷から追放した。

関白を解任され都から追放された前久は、本願寺の顕如を頼って摂津国の石山本願寺移る。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子としている。

義昭の側近、摂津晴門らの計略により「信長包囲網」がきずかれると、1573年に義昭は信長によって京都を追放される。

そして1575年、信長の奏上により、前久は帰洛を許された。


以後は信長と同じ趣味の鷹狩りを通じて親交を深めあったという。

1580年、前久は、信長と本願寺の調停に乗り出したため、顕如は石山本願寺を退去した。

1582年、本能寺の変により、信長と前久の親交は終る。

前久は当代屈指の文化人で、1587年以降、足利将軍家ゆかりの東山慈照寺、通称銀閣寺を別荘として隠棲し、1612年に77歳で亡くなった。

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