織田信長は、1534年、尾張国(愛知県)の織田信秀の嫡男として生まれた。幼名が吉法師の頃から信長は、奇妙な服装やふるまいをすることが多く「うつけ者」 と言われていた。

1546年、元服して織田三郎信長と名乗る。
そして1548年に父信秀と斎藤道三が和睦し、その証に道三の娘濃姫を娶る。

1552年に父信秀が病死。すると、叔父の信光と計り、守護代織田信友を殺害。清洲城を奪い取り、居城にする。

1556年、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との長良川の戦いで憤死する。

同年、生母土田御前が溺愛していた弟信勝が信長に謀反を起こす。だが生母の助命嘆願があり一度は許すが、1558年、再度謀反を起こしたため、仮病で信勝を清洲城に呼び寄せ殺害した。

1560年、駿府国(静岡県)の今川義元が数万の大軍を率いて尾張に攻め入る。
信長はわずか数千の兵を率い、 桶狭間で 奇襲をしかけ、義元を討ち取る。


1567年には美濃を平定し、稲葉山城下の井の口を「岐阜」と改めて岐阜城を居城にする。この頃から「天下布武」の朱印を使用し始めた。

1568年、ついに信長は足利義昭を奉じて上洛。しかし義昭側近の摂津晴門らの計略で、武田信玄、浅井長政、朝倉義景らによる「信長包囲網」が構築され苦しめられる。

1573年、信玄が病没。浅井、朝倉も攻め滅ぼされ包囲網は瓦解し、信長はその元凶の義昭を追放して、室町幕府は滅亡した。

1575年の長篠の戦いでは、鉄砲隊を組織して武田軍を討ち破り、武田勝頼はその後自害する。

そして翌年、信長は近江国(滋賀県)に巨大な安土城を建設し、楽市令で自由な商工業の発展を図った。

しかし京を離れ、天皇、公卿や寺社など従来からの権威、権力をないがしろにする信長の行動に、反発する勢力も多かった。

1582年5月29日、中国地方に向かう途中に上洛した信長は、本能寺に数十名と宿泊。6月1日に大茶会を開催する。

そして翌日未明、家臣の明智光秀の謀反にあい、 自害した。享年47歳。天下統一を目前にしての無念の死であった。


【織田信長】ユーチューブ動画

https://youtu.be/Qly6fjpXo-A