藤原不比等は、659年、藤原鎌足の次男として生まれた。

しかし「大鏡」「公卿補任」などには天智天皇の'御落胤'だと記されている。

また、「竹取物語」でかぐや姫に求婚する男の一人は不比等がモデルだとも言われている。

669年、不比等11歳の時に父・鎌足が死去し、子供の頃に大きな後ろ楯を失う。

672年に壬申の乱が起こり、大友皇子側の不比等は数えで13歳であったため、かろうじて処罰だけは免れた。

しかし、鎌足の同族の中臣氏の有力者の多くが、近江朝の要人として処罰を受けた。

そして天武天皇に不比等は疎まれ、そのため天武朝の初期には下級官吏からのスタートで、大変な苦労をする。

不遇の時代、不比等は草壁皇子に仕えていたようである。

天武天皇が686年に亡くなると、持統天皇には寵愛を受け、続いて文武天皇に仕えた不比等は、701年、大宝律令の制定で活躍。

政治家として頭角をあらわした時は、すでに40歳を過ぎていた。

しかしそれ以後は、文武天皇に娘の宮子を嫁がせて天皇と姻戚関係結び、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗りを許される。


さらに文武天皇と娘宮子の間に生まれた、のちに聖武天皇となる首皇子に、さらに娘の光明子を嫁がせたのである。

この婚姻により、藤原氏の繁栄を絶対的なものとした。

710年、平城京遷都を主導的立場で実施。

718年、養老律令を制定し、律令国家の基礎固めを行った。

また、712年には「古事記」、720年には「日本書紀」の編纂にも熱心であったようである。

不比等が日本の歴史書編纂に興味を示しした目的は、父鎌足の活躍を美化し、天皇家と中臣氏、藤原氏の関係を歴史書に残すことによって、永続的なものにするため、との見方もある。


宮廷では、武智麻呂らの息子四兄弟を要職につけ、藤原末代までの繁栄を確信しながら720年、62歳の生涯をとじた。


【藤原不比等】ユーチューブ動画

https://youtu.be/u_Z9ujAwkLU