歴史の授業で習えなかった同性愛 -2ページ目

スーザン・ブラウネル・アンソニー

ども!

セクシャルマイノリティの皆さんも、このサイトに遊びに来たノンケの皆さんも一緒に楽しめる記事を連載したいと思っていたワタクシ。 世界の歴史のあちらこちらに散在する同性愛関連のエピソードをひとつにまとめるコンテンツを作らんと、「性格が不真面目」というオノレのネックを乗り越えて、3月に本コーナーをスタートさせました。

前回の「レオナルド・ダ・ヴィンチ編」には、本当に沢山の御感想メールを頂きました(ありがとー☆)。
とりあげてほしい歴史上の人物やエピソードなど、ご要望メールも「きゃああッ」というほど送信して頂き、ホント、ウレシイ限りでゴザイマス。All About Japanのユーザーの皆さんは、あったかいねぇ。とにかくミナサマのおかげで、連載していく自信が持てるようになりました。今回も、チョーシをブッこいてお送りしてまいりましょうッ♪

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アメリカ人女性に参政権をもたらした♀♀

日本では、そんなに名前を知られていないスーザン・ブラウネル・アンソニー(1820~1906)でありますが、アメリカ人女性であるならば、誰しもが彼女に感謝の念を抱かずにはおれないことでありましょう。彼女の輝かしい業績は、1$硬貨に彼女の横顔が刻まれるほど人々からリスペクトされているのであります。

歴史の授業で習えなかった同性愛-1

「そんな人が、ホントに♀♀なのォォォッ?」と、おっしゃる御仁もいらっしゃるかもしれませんが(シツレイしちゃうねッ)、コレは大マジで動かしがたい事実。彼女の伝記(キャスリーン・バリー著)には、彼女の♀♀としての恋愛遍歴もシッカリ描かれているのでアリマス。

しかも、独身女性にとってはアゲインストがデカすぎた当時、♀♀マインドを持った女権運動家であっても結婚して子供を設けるのがフツーであったにもかかわらず、彼女は生涯独身で頑張り続けます。幾人かの女性と、めくるめく恋に墜ちながら・・・。ではでは、愛と権利運動に生きた彼女の生涯を、追ってまいりましょう☆ 

歴史の授業で習えなかった同性愛-2



そもそもレズビアンであることが、すべてのはじまり

スーザンが生きた1800年代のアメリカ合衆国の法律では、女性には財産を所有したり管理したり処分したりする権利も、子供の養育権さえありませんでした。女性がシアワセになるか不幸になるかは、まったくもって「どんな相手と結婚するか」にかかっていたのです。オトコに見捨てられたオンナは、なんのチカラもなく、よすがもなく、のたれ死にでもするしかなかったのでアリマス。これじゃ相手がどんなアホ男だったとしても、な~んにもオトコに逆らえません。

歴史の授業で習えなかった同性愛-3

さぞ当時のオトメたちは、ステキな王子様と結婚できることを夢見ていたことでありましょう。しかし、青春時代から♀♀マインドばっちりのスーザン女史にとっては、そんな夢など「おならプ~」だったのでありました。

歴史の授業で習えなかった同性愛-4

当時の女性に許された唯一のスペシャリスト職である教師の職に就き働きながら、次第に女権運動や黒人奴隷制廃止運動などに身を投じていく、スーザン女史。やがてスーザンは、燃えるような恋に目覚めていきます。



壮大な愛の運動

運動に心血を注ぐスーザンは、同じく女権運動家であるエリザベス・ケイディ・スタントンと出会い、熱い恋の炎を燃え上がらせるのでありました。二人は固い絆で結ばれ、恋愛期間が終わった後も信頼関係は壊れることなく、50年にわたってパートナーシップを崩すことなく運動を推進していきます。

「書くときは、二人でするほうがゼッタイうまくいくの。彼女は統計や分析や批評が得意で、私は文章をまとめるのが得意。そうやって書いてきた文章は、誰にも反論できないほど完璧になっているわ。」とスタントンが言えば、「私たちは頭と心が自然に結びついている関係」とスーザンが言うってな具合。

スタントンとの愛を追い風に、女性の権利を主張し、運動に邁進するスーザン。女性の服装が画一的であることに抗議して、スカートの下にズボンをはいたブルーマー・スタイルでパフォーマンス運動を繰り広げるなど、様々な活動に身を投じたのでありました。

歴史の授業で習えなかった同性愛-5

しかし、そんな彼女に「4つの試練」がやってきます。


歴史の授業で習えなかった同性愛-1

南北戦争が始まって、運動がストップ。

この戦争により、スーザンが築き上げてきた運動も、一時は立ち消え状態。なすすべもなく、戦争が終わるのを待つほかはありませんでした。


歴史の授業で習えなかった同性愛-2

スタントンに会えない。

スタントンとは固い絆で結ばれてはいたものの、スタントンの夫は彼女を家庭に縛りつけたがったため、二人の恋愛生活はままならないものでした。しかも、スタントンは7人もの子供を産んだため、家事や育児に時間を割かねばならず、なかなかスーザンとの逢瀬はかなわなかったのでありました。


歴史の授業で習えなかった同性愛-3

♀♀運動家の、相次ぐ結婚。

志を同じくして共に闘ってきた♀♀仲間のカップルが、相次いで男性と結婚し、運動から退いてしまいました。「性的に屈服させられることが、いかに女性の従属をもたらしているか」を♀♀の目から冷静に見つめ、共に闘ってきた仲間だっただけに、裏切られた思いが強くショックを受けるスーザンなのでありました。


歴史の授業で習えなかった同性愛-4

参政権運動の失敗。

1868年に男性には全員に参政権が認められる憲法修正第4条が成立。
これを機にスーザンはスタントンと共に週刊誌「革命-レボリューション-」を発行し、婦人にも参政権が認められるよう運動を起こしましたが、残念ながら実りませんでした。



起死回生の恋

こてんぱんな目にあってヘコみまくるスーザン女史に、やがて新しい恋の相手が現れます。
20才年下の、女権運動の人気講師、アンナ・ディキンスンという美女。歴史研究家のジョナサン・カッツ氏は二人のことを「親密で愛情タップリ、性的にも燃え上がっていた」と述べています。歴史研究家ジョナサン・カッツ氏の著作ではスーザンがアンナに宛てたラブレターの一部が紹介されていますが、これがまた、かわゆい。見事なまでの、デレデレぶりであります。運動においては獅子吼のように叫ぶ彼女でありましたが、好きな人には仔猫ちゃんなのねん☆

歴史の授業で習えなかった同性愛-5



永遠に輝く女性

1872年、スーザンは法律で禁じられているにもかかわらず、選挙で投票を行い、逮捕されます。罰金刑に処されますが、「罰金!?あたしゃ、そんなもの金輪際、払うもんかい!!」と、スーザンは大タンカを切りました(カッコイイ!)。スーザンがガンとして罰金の支払いを拒否したため、この事件は裁判となり、全米中に知れ渡るところとなりました。結果的に、女性の参政権獲得への、大きな追い風となったわけであります。

スーザンは、その後も「北米婦人参政権協会」の会長として精力的に執筆・講演・ロビー活動などを続け、スタントンが亡くなった4年後の1906年に、この世を去ります。スーザンが生涯をかけた運動はスーザンの死の14年後に実を結び、憲法修正第19条が成立。女性に参政権が認められるコトになりました。
この修正は、通称「スーザン・B・アンソニー修正」という名で呼ばれ、現在もなお全米中の女性に光を与え続けているのです。


歴史の授業で習えなかった同性愛-6

晩年のスーザンとスタントン。
ふたりの信頼関係は、生涯続いた。