オスカー・ワイルド | 歴史の授業で習えなかった同性愛

オスカー・ワイルド

歴史の授業で習えなかった同性愛-1

今回は、近代以降のゲイに、そしてノンケにも多大な影響を与えたオスカー・ワイルド(作家1854~1900)について書きましょう。オスカー様はたぶん、近代のゲイの歴史を語る上では誰よりも重要な人物であります。なんで歌川より勉強されている方も多いことでありましょう。いろいろツッコミどころ満載なことを書いてしまうかもしれませんが、まぁ、うたぐわバイアスってことで勘弁してちょー。


19世紀・20世紀に、ゲイ達が世界に与えた贈り物・・・それは、「変革」です。


昨年ご紹介したランボーやスーザン・B・アンソニーをはじめ、ウォルト・ホィットマン、20世紀に入ってからはアンディ・ウォーホール、ジョン・ケージ、フレディ・マーキュリーなどなど、これまで世間になかったスタイルを提示してすべての人々に影響を与えた人物がドバといるのでございます。本日ご紹介するオスカー・ワイルド先生も、(特にイギリスにおいては)後世に多大なる影響を与えた超一級の作家であり、同時に「近代に現れた最初の同性愛者」でもあります。近代において、彼のようなセンセーショナルなカムアウトっぷりを見せた人はいません。よって、後のゲイ達のアイデンティティに与えた影響も、はかりしれないモノがあるのでございます。





なんと、2歳で女装

オスカー・ワイルド先生がお生まれあそばしたのは、1854年のアイルランド。父は著名な医師で母は学者で詩人。セレブ家庭に生まれたオスカー先生は、高級住宅街でやんごとなくお育ちになられます。

オスカー先生の兄御が生まれたときに、「次はゼッタイ女の子よ!」と思っていた母上は、オスカー先生が生まれたときには「キィィィッ、またチン○コついとんのかい!」と地団駄モノだったそう。「カワイイ女の子を産んで、あんなドレスや、こんなドレスを着せたい着せたい~~~」というのが、母上様の夢だったのです。
カワイイ女児にカワイイ服を着せたいというのはオンナとして自然な欲求なのだそうでありますが、「チンコついててもいいから、女の子の服着せちまえ~~」と思う母は少ない。それをやっちまったのが、オスカー先生のお母上様だったのであります。そんなもんで、見て下さいませ。2歳児にして、この艶姿。オスカー先生の人生の、華々しいスタートでありました。

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こんなことを書くと、「母親が育て方を間違うとゲイになってしまう」みたいなことを考える人がいてイヤなんだけど、子供は狙い通りには育たないのがフツーであります。ゲイにしようと男児の幼少時代に女装させれば一様にゲイに育つかといえば、そんなことは考えられません。あくまでも、モノを言うのは本人のポテンシャルなのでありまする(また、セクシャリティとベスタイトは、つながってはいても別モノなのです)。

しかしながら、クレバーな幼きオスカー先生は、「ジェンダー」や「ベスタイト」、「わけがわからないけどメインストリームとしてまかり通っている既製のホゲホゲ」みたいなものに、疑問を抱くように育っていきます。そんなものをブッ壊したところで、人類はなにも失いはしない。それを直観的に悟った怜悧な少年だったようであります。





ロンドン社交界の風雲児?

オックスフォード大学を優秀な成績で卒業するオスカー先生でありますが、学生の頃から服装はド派手。「貴族の森かここはーッ」と、ツッコミを入れたくなるほど装飾過多な部屋に住んでいたそうです。しかし頭脳は恐ろしいほどソリッドな御仁で、古典語などをつぎつぎにマスターし、詩才で人々にタメ息をつかせ、在学中から受賞なんかもしていたそうであります。
卒業後、オスカー先生はロンドンの社交界で超人気者に。チャラ男然とした華美な服装や、独特のアイロニーで注目を集めます。こういう色モノ系はマスコミも喜びますから、いろいろな雑誌がこぞって先生をカリカチュア(風刺漫画)のネタにしたりしたそう。

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そんな中、人々をアッと言わせる詩・小説・戯曲・エッセイ・童話作品を次々と発表。
童話「幸福の王子」、小説「ドリアン・グレイの肖像」、"自然は芸術を模倣する"という名言で後世のアーティストに多大なる影響を与えた論文「嘘の衰退」、「まじめが肝心」に代表される舞台作品の数々。愛しい人の生首とのラブシーンがインクルードされた衝撃的な戯曲「サロメ」をリリースすると、彼の唯美主義がメガトン級の勢いで世界に広がったりもしました(日本もモチロン影響を受けていて、松井須磨子演じる「サロメ」は劇場前に長蛇の列をつくったそうであります)。

ロンドンにおいて一流の文化人として(そして一流のチャラ男として)のぼりつめていった、オスカー先生なのでありました。





オスカー先生の恋と結婚

さてさて、同性との性愛が有名なオスカー先生でありますが、実はオスカー先生は30歳で結婚して二人の子を設けております。「じゃあ、最初はノンケだったの?」と仰るムキもおありになるかと思われますが、当時はノンケとゲイのボーダーが現在よりももっともっと曖昧で、オスカー先生の登場する以前は「同性愛者」という概念すらありませんでした。オトコ好きでも、フツーに結婚して子供を作るのがアタリマエの時代だったのです。中にはチャイコフスキーのように女性とは絶対ムリな人もいましたが、多くは子供も作ったりしているのです。

奥さんの実家の資産で優雅な生活を送る、オスカー先生。
ところが、恋愛は不慮の事故。

その人の人生に突然襲いかかり、甘く苦しく、人生を変えてしまいます。
出会ったのは17歳のオックスフォード学生、ロバート・ロス君。オスカー先生の記述によれば、ロバ君が色香でオスカー先生を誘惑した模様。う~ん、若者から積極的に誘惑してきちゃったら、そりゃ~かなわないねぇ。オスカー先生、あっさり降伏した様子であります。それからというもの、夜な夜なゲイスポットで交流の輪を広げるようになるオスカー先生。ちょっと放蕩気味な二重生活がスタートします。ハチャメチャをやりながらもロバ君との仲は日々深まり、恋愛関係を超えた信頼関係が築き上げられていきました。オスカー先生の死後は、このロバ君がオスカー先生の財産管理人となっています。


そして更に、オスカー先生をトロかした美貌の青年が登場。
オスカー先生が大ヒット小説「ドリアン・グレイの肖像」を発表しノリノリの時に現れた、21歳のブロンド青年。それが、アルフレッド・ダグラス君であります。このブロンド君に、オスカー先生は、もうメロメロ。


「ボージー(アルフレッド・ダグラスの愛称)はさながら、ナルキッソスのよう。金色にまばゆく輝いてソファに横たわり、私が崇めるにまかせるのです」という、二人の恋愛関係がバレバレになっても全然かまわねーぐらいの手紙を、あっちにもこっちにも送っちゃったりしています。ああ、恋さえしていなければ絶対やらないようなことをやっちゃうところが、恋のすごさ。恋なんて、だれが遺伝子にプログラムしたのでありましょうか。

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オスカー先生とボージー君はブチューブチューに愛し合いながらも、二人で同じ男を食ったり、ボージー君がオスカー先生に男をあてがったり、快楽三昧の日々。まさに「ああ、ワイは生きとる、生きとりまっせぇぇぇッ!」なカンジのオスカー先生であったことでありましょう。しかし、「魔は天界に棲む」でアリマス。こうした快楽の日々の中に、破滅の足音が近づいているのを、まだオスカー先生は気づいていないのでありました。






事件は、恋人の身内から起こった

オスカー先生とボージー君が繰り広げる、自由で奔放な性愛。
しかしながら、このテの自由とは社会における「制度」とか「システム」には嫌われる場合が多いもの。「制度」とか「システム」とかは、けっこう強力で、ゲイだからといってそこから自由なのかといえば、けっこう「システム側」に立つゲイも多い(イイとか悪いではなく)。「制度」や「システム」は、ナメてはいけません。オスカー先生も、そこには随分痛い目にあいました。そのことも、オスカー先生が身をもって示した遺産なのであります。

仕事も恋も絶好調なオスカー先生を失脚させ、はたまた命までをも縮めさせた事件が起こりました。
ことの発端は、恋人ボージー君と彼の父親との不仲。
「息子の挙動が怪しすぎる!まったく恥ばかりかかせおって~!」と、かねがねから思っていたボージー君の父親・クインズベリー侯爵。オスカー先生がボージー君に宛てたラブレターを、ある日、入手してしまいます。「やっぱりそうだったのかッ」と、怒髪天。「あの、オカマ作家め、息子をたぶらかしおって!どうしてくれようぞぉ~~~!!」と、怒りで我を忘れてしまったのでした。まぁ、好き勝手に遊び呆ける息子は同性愛行為がバレバレ。そのたびに世間の風評を浴びせられる父親にしてみれば、仕方のない怒りだったのかもしれません。

怒り狂った父親はオスカー先生の定宿を襲い、「このオカマ、オスカー・ワイルド!」と走り書きを残します。
この怒り任せの走り書きを読んだオスカー先生もご立腹。「なに言ってやんだ、バーロー!しかもスペル間違ってんじゃねぇか(走り書きはSomdomiteと綴りが間違っていた。正しくはSodomite)、この野郎!オレら、愛し合っただけで、なんも悪いことはしとらん!」と怒るオスカー先生に、もともと父親と不仲だったボージー君は「やっちゃってください」とけしかけました。そんなこんなで、オスカー先生はクインズベリー侯爵を中傷罪で告訴したのでありました。

弁舌ならば誰にも負けないオスカー先生、あざやかな展開でクインズベリー侯爵を追いつめていきましたが、クインズベリー侯爵が突きつけてきた切り札は、「オスカー・ワイルドから男色行為に誘われたことがある」と証言できるという12人の若者のリストでした。オスカー先生側の陣営も、これには真っ青。同性の若者を男色行為に誘ったとなれば、当時としては重罪であります。「はやく告訴を取り下げて、パリに亡命したまえ!」と、強くオスカー先生に勧めます。オスカー先生、人生最大の大ピンチでありました。


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その後のゲイ達の意識を変革する演説

もはや裁かれようとしているのは、クインズベリー侯爵ではなく、オスカー先生。
さらに泣きっ面に蜂とばかりに、オスカー先生の男色行為を詳細に密告する手紙が、検事の元に届きます。「告発者はわたしだ!」と、オスカー先生の叫びもむなしくクインズベリー侯爵は無罪、オスカー先生の詮議が進められることになるのでありました。いつしか、裁判は同性愛そのものを裁くものとなっていったのです。

四面楚歌となった、オスカー先生。しかし、偉大な人間はこんな場面で、出生の本懐ともいえる言動をするものであります。作家としての社会的地位も失脚し、甘い恋の生活も失い、家族達も苗字を変えて隠れ、このまま牢獄へとつながれる。。。そんな時にオスカー先生が放った一矢は、社会全体に向けられたモノでありました。

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『(ボージー君が発表した詩の一節の意味を聞かれ)"その名を口にできない愛”とは、偉大なる愛の別称です。プラトンの哲学の基礎となり、ミケランジェロやシェイクスピアのソネットにも見いだされるものです。深く精神の奥底でつながりあう愛にして、純粋かつ完全。シェイクスピアにしろミケランジェロにしろ、偉大な芸術作品の決め手となったのはこの愛であり、作品の隅々にまでそれは息づいているのです。だが、今世紀ではそれはまったく理解されていません。だから、"その名を口にできない愛"としたためられているのです。私がここに連れてこられたのも、この無理解のせいであります。しかし、この愛は美しい。健全で、貴い。自然に背くことなど、なにひとつありません。この愛は今後も絶えることはなく、人々の間で幾度も幾度も繰り返されるでしょう。このすばらしい愛を、なぜ世間は理解しようともしないのでしょうか。冷やかし、嘲笑し、時にはこのように晒し者にするのです。』

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作家として頂点に上り詰めた身でありながら、罪人にされようしているその時に、オスカー先生は「いやー、ホモなんてやってないッスよ~」とトボけようとはしませんでした。同性愛を肯定し、その愛に身を捧げる自分を肯定し、この愛と自分のアイデンティティが不可分であることを大声で叫んだのです。それは、世界に初めて「同性愛者」が登場した瞬間だったのかもしれません。
セレブの家庭に生まれ、才能と財産に恵まれて世の中で羽を広げ生きてきた、チャラ男くん。しかし、人生の一大クライシスにおいては、彼はチャラ男ではありませんでした。


渾身の言葉も甲斐なく、2年の投獄と重労働服務の判決を受けた彼。獄中で体を壊して、釈放後間もなくパリで息を引き取ります。悲劇的な最期を遂げたオスカー先生でありますが、彼が叫んだその言葉は残り、ゲイにもヘテロにも、大きな影響を与えました。オスカー・ワイルドの唯美主義に心酔した若い作家が続々と頭角をあらわし、彼の影響を受けた同性愛者アクティヴィストが水面下で解放運動の下地を作っていくようになっていきます。そう、オスカー・ワイルドの残した言葉を合い言葉に、「同性愛者」は「連帯」と「美学」という武器を手に入れて自分たちの存在を世間に認めさせていくために動き始めたのです。
彼の銅像は、彼が生まれ育ったアイルランドの地に、いまも彼らしく脚を伸ばしてのびのびと座っています。衣装も彼らしいチャラチャラした衣装で、世界のゲイ達の暮らしを、今日も見守ってくれていることでしょう。

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