チャイコフスキー | 歴史の授業で習えなかった同性愛

チャイコフスキー

チャイコフスキーは、恋に殉じたのか?

バレエファン、クラシックファンでなくとも誰もが知っている名曲の数々を生み出した、ロシアの大作曲家・チャイコフスキー。

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チャイコフスキーがゲイであったことは、けっこう有名。結婚した経験があるにもかかわらず、ほとんどの歴史研究家達が、彼がゲイであったことを疑っておりません。
というのも、チャイコフスキーは学生時代からゲイの友人も多く、数々の恋の手紙なんかが遺されていることから、「現代とそんなに大きくは変わらないゲイライフ」を送ったことがわかりやすいのです。


チャイコフスキーがゲイであったことは疑いがないにしろ、彼がなぜ死んだのかについては、歴史学者各々で説が分かれています。

「流行の感染症で死亡した」
「ゲイであったがゆえに、恋に殉じた」

などの諸説、さまざま。チャイコフスキーの親族、友人、貴族階級のさまざまな人達が、自分にとって都合のいい証言をしたため、真実は藪の中。今回は、チャイコフスキーの送ったゲイライフと、死の真相について探求してまいりましょう!




ちょっと不安定な天才肌・思春期の頃からゲイライフ☆

■子供の頃から天才肌

チャイコフスキーのフルネームは、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(ピョートルは、英語風にいえば「ピーター」)。ヴォトキンスク(現在はウドムルト自治共和国)のプチブルで文化的な貴族の次男として生まれました。
6歳ですでにドイツ語・フランス語を理解し、文学的才能やピアノの才能を周囲から認められていた、天才肌。でもちょっと不安定なところもあり、泣き出したらとまらなかったり、なにかにのめり込みすぎたりする傾向があったそうです。ま、天才なんだから、しょーがないスね。

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左端がピョートル。けっこう大家族だね


音楽、とりわけオペラやピアノに強い関心を示したピョートルですが、当時は音楽家が職業として確立していなかった時代。一家でペテルブルグに移住したのを機に、ピョートルは寄宿制(ムフフ)の法律学校へ入学することになるのでした。寄宿学校(超エリート校だったんだって!)といえば、

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背景は、ホントにチャイコフスキーがいた学校です

な~んていうのを想像しちゃうでしょ。。。実は、その通りだったのでした。





寄宿学校で、さっそくゲイライフ、そして音楽への情熱

この学校でピョートルはさまざまなゲイの友人と知り合い、ちょっとした恋愛なんかも体験(たぶん初体験も)します 。まさに、ヤオイねえちゃんをビショビショに濡らす、プチブル貴族男子寄宿学校でのゲイライフ。

下級生のセルゲイ・キレーエフという生徒と2人で手を組んでいる写真(上級生と下級生の交流は禁じられていたのに、シッカリやってます)が、ずっとずっと後年になってもチャイコフスキーの家の仕事机の前に貼ってあったそうです。もう、この頃からすでに、好きになったら忘れられない恋愛ハマリ体質だったんですね。

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若き日のピョートル。けっこうカワイイけど、年下専だったんスね

14歳のある日、最愛の母が流行病のコレラで他界。
ピョートルは狂わんばかりに嘆き悲しみ、耐え難い痛みの中で作曲を始めました。幼い日に、「上手ねえ」と母がほめてくれたピアノ。この頃のピョートルにとってピアノに向かうことは、失った母親との交信の時間だったのでしょう。神様は、年端のいかない少年に過酷な悲しみを与えてでも、天才を進むべき方向に向かわせるのです。

やがて、音楽と共に成長したピョートル。友人達とオペラを見まくったり、コンサートに行きまくったり、学校の音楽イベントに率先して参加したり、音楽への情熱はピョートルの胸の中で日増しに熱を帯びてくるのでありました。ピョートルがこの寄宿学校で育てていたのは、ゲイ・マインドだけじゃなかったんですね。





音楽家としての成功とカムフラ結婚

■音楽家としての成功

法律学校を卒業すると、法務省に就職しエリートコースの職に就くピョートル。
しかし、もともと法律になんてゼ~ンゼン興味なし。この頃のピョートルは、仕事のストレスからか、ゲイ友の影響からか、遊びまくり。チョイと借金のしすぎで苦しくなっちゃったりもしています。それでも音楽への思いは断ち切れず、ひとりコツコツと、音楽理論の勉強を続ける、ピョートル。継続はチカラなり。

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ゲイ友と遊びまくり倒していた20代前半のチャイコフスキー。けっこうモテたんじゃないですかね。

そんなピョートルのもとに、願ってもないニュースが。
なんと、ロシアで初めての「プロ音楽家養成学校」ができるってじゃないスか!ピョートルは、それまでのエリート街道をかなぐり捨てて、その音楽学校に飛び込むのでした。このへん、いったんは勤め人になったものの夢を捨てられずアーティストになった人々(B'zとか)と、まったく変わりナイですね。。

それまでの鍛錬の成果か、ピアノなどの必修科目を次々と飛び級して、優秀な成績で音楽学校を卒業したピョートル。モスクワに活躍の場を移し、貴族や音楽界の実力者達に目をかけられてメキメキと頭角をあらわしていきます。熱烈な音楽好きの鉄道富豪・メック夫人は、彼を支持し、資金を援助し続けました。そのおかげでピョートルは音楽活動に専念でき、後世に残る名作を続々と発表したのです。

音楽家として名声を手に入れ経済的にも裕福になったピョートルは、美青年兄弟・ミハイル&アレクセイ(遺言によってチャイコフスキーの死後、遺産をすべて相続したのは彼!)を家政夫にして(イヤラシー)ムフフな生活。
他にもピョートルは、エドワルド・ザークという青年に恋をして、ハマりまくりました。ところが、彼は19歳の若さで自殺。ピョートルは彼の死を長い長いあいだ嘆き悲しみ、彼に捧げたとされる名作「ピアノ協奏曲第1番ロ短調Op.23」を作曲したのでした。

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「彼ほど強く僕が愛したものはほかにはいなかったように思う。神様!僕は彼を愛していた、いや、愛していたのではない、今でも愛している。」と、エドワルドの死を悼む気持ちを日記に記したものが遺っています。ハマってたんですね~。

チャイコフスキーの特徴は、私生活でショックなことがあると、音楽的に飛躍するってとこですね。チャイコフスキーの楽曲に統一して感じられる「もの哀しさ」は、こういうところに起因しているのかも(まぁ、ロシア民謡をベースにしたものが多いってことも「もの哀しさ」の要因のひとつかもしれないけど)。




■カムフラージュ結婚の大失敗

ピョートルが37歳の時、ものすごい情熱としぶとさで、彼に求婚した女性がいます。アントニーナ・イヴァーノヴァ・ミリューコヴァという女性で、当時28歳。ピョートルは、自分に熱烈な求婚レターを送り続る(コワイっつの)彼女を、はじめは煙ったく思って断り続けていたものの、急転直下、彼女と結婚してしまいます。アントニーナには「僕は女性が好きになったこともないし、愛せない。静かで穏やかな関係でもいいなら、君と結婚するよ」と告げ、パトロンであるメック夫人には「結婚していた方が、なにかと世間体がいいしね」みたいなことを、言っちゃってます。ところが世の中、そんなに甘くはなかった。アントニーナはピョートルに性的な関係を迫り、挙げ句の果てには自殺未遂。結婚生活は、わずか二ヶ月半で破綻してしまいます。

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協議離婚は成立せず、籍も抜けないままピョートルは「妻」である彼女に生涯、仕送りをし続けなければなりませんでした。彼女はその後も、私生児を産んでは孤児院に入れたり、精神を病んでピョートルに復縁を迫ったり。そのたびにピョートルは金をせびられます。


「カムフラ結婚なんて、するからさ!」
そう思う方も、いることでしょう。でも、現代ニッポンだって結婚していないだけで「負け犬」呼ばわりされる んです。当時の結婚していない人々が、どれだけ肩身の狭い思いをしていたことでしょう。チャイコフスキーだけを責めるわけにもイキマセン。

「あざむかれたアントニーナが、かわいそう」?
それも、どうでしょうか。事前に「僕は女性を好きになったことがない」とまでチャイコフスキーに言われてるんだから(ほとんどカムアウトじゃん)、 彼女だって「なんかヤバいかも」と気づかなければいけなかったんです。

まぁ、「なんとかなるさ」と思ってしまったピョートルも、たしかに見通しが甘かった。カムフラ結婚は、修羅場覚悟のイバラの道であることも多いのです。まぁ、周囲にカムフラ結婚しようとしている人がいても、歌川は止めませんが(その人の人生だからね)。





チャイコフスキー最大のハマリ恋@同性愛

私生活のごたごたで、ヘロヘロになるピョートル。愛する美青年家政夫兄弟も、兄は田舎へ帰り、弟は兵役にとられてしまいます。しかし、ごたごた&ヘロヘロの間にも、代表作品を次々に発表。セフレなんかも、何人かはいたようです(現代のゲイにも、こんな人いそうだよね)。この頃、夏になると妹の住むウクライナのカメンカで過ごしていた、ピョートル。このカメンカの地で、ピョートルは人生最大のハマリ恋に遭遇することになります。

相手は、ヴラディーミル・ダヴィドフという名の、ピョートルの甥。
ピョートルはこの少年を「ボブ」と呼び可愛がっていましたが、ボブが成長するにつれ、次第に心奪われていきました。
この、もの憂げな少年に、心労の多い日々に疲れたピョートルは、身も心もトロかされてしまったのです。
カメンカにいる間に書かれた日記は、もう、「ボブ」の字だらけ。「ボブ」の字まみれ。「ボブ」の字ジゴク。歌川も激しい片思い中には、紙があったらそこに相手の名前を書かずにいられなくなることがありましたが、まさにそんな状態だったのでしょう。紙があると、そこにボブと書かなければ苦しいのです。ハマッたのね~~~~☆





ボブを思うと狂いそう!
チャイコフスキーの、ハマリ日記☆


1884年5月1日
大好きなボブと、ピアノを連弾しちゃった♪もう、超シヤワセ。
ボブってば、なんであんなにカワイイんだろう。めちゃくちゃ本理想。
連弾してて 、ボブもけっこうイイ感じで微笑んでくれてた~~~~。

1884年5月22日
仕事してたり散歩してたりしているとき以外は(ってか、散歩も仕事のうちなんだけど)、もうボブに会いたくて会いたくて、たまんなくなっちゃうよ~~~~。ボブがいないと、もうダメ。絶対ダメ。寂しくて死んじゃう。どうしよう、こんなに好きになっちゃって。どうしよう、マジで。どうしたらいいの~~~~。自分が怖い~~~~。

1884年5月31日
あああああッ、ホントにもうッ 。
夕食後に、ボブと二人っきりになっちゃった。もう、メロメロってか、なんであんなにカワイイんだろ。バルコニーでブラブラしたり、ベンチに座って僕の曲について話したりしてるだけで、もう、たまんない!ちょびっとアンニュイなところも、ビンビンきちゃう!

1884年6月3日
どうしよう。今日はもうモスクワに帰らなきゃならないんだけど、どうしても帰りたくないの。ボブのせいだよ、なにもかも、ボブのせい!ボブのこと考えると、モスクワになんか帰ってる場合じゃねーよってカンジ!


チャイコフスキーが生まれたのは、1840年。だから、この日記を書いたのは。。。。44歳かい!誰か、助けてあげてクダサイって感じ。。。で、ボブ君はというと・・・14歳。だめぢゃ~ん、ロリロリぢゃ~ん、現代のアメリカになんか生まれていたら、やばいっすよ。隔離されますよ、先生!

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だって、好きなんだモン♪

ところで、このボブ君とピョートルの関係ですが、ボブ君が大人になるとプラトニックな関係ではなくなったそうです(一応、大人になるまでは待ったんですね)。歌川が調べた文献には、「証拠もある」と書かれてありました。どんな証拠だよって思ったんだけど、どんな証拠かは書かれていなかった(書けっつの)。
でも、ピョートルはそれ以降の晩年期にもセフレをいっぱい作っていきますから、「満ち足りたパートナー関係」には、いたらなかったようです。時代が時代だし、仕方ないか。ちょっと可哀相かも。





チャイコフスキー・死の謎


私生活ではゴタゴタ&ヘロヘロ&メロメロなことが多くても、天才は次々に名曲を創作し、精力的に音楽活動を続けます。彼はロシアの大作曲家と誰もが認知する地位にのぼりつめ、国際的にも影響力のある巨匠になっていったのです。そして1893年、彼は後世に遺る名作「悲愴」を作曲し、まもなく63歳でこの世を去ります。

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ロシア音楽協会理事・モスクワ音楽院試験管・皇帝の室内音楽会会員・ケンブリッジ大学の名誉博士など多忙を極め、なおかつバレエ・オペラを続々と発表。



■チャイコフスキーはコレラで亡くなったのか

一昔前までは、「チャイコフスキーは生水を飲み、彼の母親と同じくコレラに感染して亡くなったのだ」というのが定説でした。しかし、そのことを覆すような証拠が続々と発見されていきます。
コレラで亡くなったというのは、チャイコフスキーの弟(彼もゲイ@既婚)が、チャイコフスキーの死をスキャンダラスにしないために発表したウソだというのです。


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チャイコフスキーの葬儀は2日にわたって、大勢の方々が参列し、お別れのキスまでなさったそうですわね。でも、コレラのような感染力の強い病気にかかっていた場合、ありえないことですわ。しかも、使っていらしたお布団は焼かずにとってあるなんて、信じられません。コレラ患者は、ご遺体も身の回りのものもすべて亡くなってすぐに焼かなくてはならないんですの。

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チャイコフスキー先生が亡くるまえ、先生は名作「悲愴」を完成させて自信に満ちあふれていました。ところが亡くなる4日まえからは、急に躁鬱状態になっていました。憔悴したように部屋をうろついたり、泣き出したり、あり得ない失敗をしたり。また、身辺整理をするように遺言を確かめたり、作品の分類をはじめたり、未完だった仕事を片付けたり、何かに追われるようになさっていました。急に病気で亡くなったと聞かされても、とても信じられませんでしたね。亡くなった理由は病気ではないと思います。




■同性間の性行為を行った咎での、実質上の「死刑」?

チャイコフスキーの死をめぐって、大変に有力となっているのは、このような説です。

【1】チャイコフスキーはステインボーグ・フェルモール侯爵の甥と肉体関係を持つ。
 (当時、同性愛をめぐるこうしたスキャンダル関係者はシベリア流刑モノ)

【2】憔悴した侯爵は、 チャイコフスキーが甥をたぶらかしたと皇帝に直訴。

【3】困った皇帝は、秘密法廷を開く。

【4】チャイコフスキーの味方をする者はなく、「砒素を飲んで自殺しろ」と判決がくだる。

【5】チャイコフスキー、自宅で砒素を飲み、自殺。




そんなことが起こりえた社会ってのが問題デス!

チャイコフスキーの死がコレラによるものではなく、同性間で関係を持った咎での実質上の「死刑」であったのか。。。ことの真偽は、知るよしもありません。しかし、「好きな人とベッドをともにした」という理由で死ななければならないということが常識であった時代が、この国にもあったということは間違いがありません。結果として悲劇的な最期を遂げてしまったのだとしたら、ものすごく悲しい。そんな人が二度と現れないような世界にしていかなくちゃならないと、マジで思う。

時代は、同性愛者にやさしくなったり過酷になったりを繰り返します。
僕たちの立場は(命さえも)、いつだってマジョリティの人々の意識に委ねられてしまっているのだということを常に忘れてはならないんだなぁと、このエピソードを調べていて思った歌川なのでアリました。

自分らしさを殺すことなく生き延びていくために、マジョリティの人々とどう向き合っていくのか。。。それを考え続けていかないことには、時代の過酷な流れにさらされたときに、誇りも命も失ったりしてしまったりすることも、あり得るのでしょう。



アゲインストな時代のゲイの、光

小説「モーリス」は、イギリスのゲイ暗黒時代に恋をするゲイたちを描いた作品ですが、「モーリス」にも、チャイコフスキーの名は「ゲイであった大作曲家」として、たびたび登場します。孤立無援、沈黙と秘密を強いられていた時代のゲイたちにとって、チャイコフスキーがゲイであったということは、希望であり光でした。

世界中で永遠に語り継がれてしまうような名作の数々を創作しながらも、ものすごく「いる、いる!」な感じのゲイであったチャイコフスキー。そのようなゲイライフを送った彼だからこそ、ツライ時代のゲイたちの希望の光となり得たのでしょう。

ありがとう、チャイコフスキー!



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チャイコフスキーのお墓です