徳川家光 | 歴史の授業で習えなかった同性愛

徳川家光

前回の「歴史の授業で習えなかった同性愛」では、近世ニッポンの男色関連のコラムをお送りいたしました。そしたらば、現在のところGoogle検索では「男色+歴史」「同性愛+歴史」などのキィワードで検索すると、このサイトがけっこう上の方にきてしまうようになったのでヤンス。

その結果、日本史好きのゲイ&ノンケから「論客メール」や「質問メール」がドバときてしまい、真っ青状態の歌川。特に多かったのが、近世ニッポンの男色の有り様はあくまでも「少年愛」であり、宗教的な戒律を背景とした当時の美学であった。男色の対象となった美童や美少年達は女性の代用(?)でもあったのだから、現代のホモと一緒くたにして(してねーよ)紹介するのはケシカランッ!という内容のメールでありました。



そこで反論

確かに上記のことは、一般的に定説となっているコトではあります。しかし、歌川はあえて「ちがわーい」と言ってしまいます(日本史の専門家じゃありませんが)。事実、江戸時代前半に見られた陰間茶屋(男娼宿)などでは女性的な美少年が男色行為の相手をつとめることが主流だったようです。


でも、「かぶき者(ちょっと不良なオトコ)」達の男道的男色行為が数多くあったことも事実だし、お殿様方の男色相手の小姓たちは、決して女性的ではありませなんだ。

例を挙げると、1671年に酒井家の江戸屋敷で、狼藉者を小姓(稚児)が一閃で斬り殺した記録が残っています。相当腕っぷしの強い少年だったのではないでしょうか。同様の記録はアチコチにあるのです。稚児って、オトコらしかったんですよ☆(注:「男色は単なる女性の代用ではない」ってことを言いたいのであって、女性的な男性を蔑視するキモチはゼンゼンありません)
さらに、男色相手との痴情のもつれから多くの刃傷沙汰事件が起きてしまった記録や、オトコの奪い合いで戦が起こっちゃったりしたハナシもたくさん残っているそうです。単なる「美学」や「代用」だったとしたら、あり得ないようなハナシでございます。

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中村一忠と2人の小姓の木像(米子市HPより)

「宗教的な戒律を背景とした当時の美学」や「女性の代用」として男色行為をしていたと捉えるのが正解にあたるような人だけではなく、ホンキで恋しちゃうヤツ・たくましい成人男性に恋したりするヤツもけっこういたと考える方が自然なんじゃないかと、歌川には思えるのでありました。しかも、前者と後者はハッキリ分けられるカンジじゃなくて、グラデーションしていたんじゃないでしょうかねェ。

それにしても、論客となってメールを下さった方々の「現代のホモと一緒にすんなッ」とムキになって言ってしまう姿勢に、ちらちらゲイフォビア感情が見え隠れしていて、すんげーイヤなカンジ!
その人が生きていた社会がどんな社会でも、相手が少年でも成人でも異性であっても、その相手が好きならば、それは「恋」でいいんじゃないでしょうか。「こういう社会背景だから、オレはオマエが好きなんだ」と思う人なんて、いないわけです。

フォビアチックなメールにイッパツ、吠えてみましょう♪

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十返舎一九

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十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の主人公・ヤジさんキタさん。あまり知られていませんが、実は二人(ちゃんとした成人ですヨ)は男色関係というキャラ設定で、ふたりで駆け落ちして(愛しあっているからですよ)旅に出るのです。それでいて、道中の女性にチョッカイ出しまくり。江戸時代の日本人って、おもしろいセクシャリティの人がイッパイいたってコトですね~♪ステキ☆




ここから、マジでオトコ好き将軍・家光についてです

さてさて、この徳川の三代将軍・家光こそ、歌川が推測する「ホンキでオトコに恋しちゃう歴史上の有名人(日本編)」ナンバー・ワンなのであります。褌一つで裸の将軍に仕える「湯殿番」に男色対象の若者を当てていた(大奥に行きゃあオンナに洗ってもらえるのに)という記録も残っていて、まぁ「オトコが好きだったんだなぁ~」というのは容易に想像がつくというモノ。男色に耽るあまり、将軍家の子作り後宮・大奥にゼンゼン足を運ばず、焦った春日局(家光の乳母にして絶大なる権力者)が次々と美女をリクルートしたが、なかなか春日局の思うようにいかない。

「これでは、お世継ぎができませぬ!」
「徳川百年の大系が揺らぎまする!」

と、 江戸城を騒然とさせたというのは、公然たる事実のようです。

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春日局




ドラマで描かれた家光のオトコ好き

男色に耽ってばかりでちっとも子作りしない家光の様子は、83年放送のドラマ『大奥』(フジテレビ)でも、しっかり描かれておりました(画像はココ)。しかし、ドラマの中では男色を「春日局の詮索好きストレスにヤられた家光の病んだ行為」として描かれていて、相手の小姓・土井弥五七は「将軍を迷わせてしまった罪」を自覚し自害して果てます。これには歌川、おおいに不満でありました。

「上様は今、病んでおられる」と、徳の高い(という設定の)尼御前(高峰三枝子)が上品に言う場面なんて、

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ってなカンジでありました。
弥五七の自害で家光は、道を誤っていたことを悟り、改心して、後の側室お振(市毛良枝)との愛に突入するのです。バカいってんじゃねーよ、ふんッ!当時の人達は男色を「病んだ行為」だなんて、これっぽっちも考えてなかったんでィッ。

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また、平成に放送された「大奥-第一章-」ではもっとひどくて、春日局への反発心から男色好きのふりをした家光であるのを、お江与の悪意で「家光オトコ狂い」のうわさが広まっただけ・・・みたいな描き方。なんで同性愛を排除しなければならないんでしょうかねー。

それにしてもスゴかったのは、男色に耽る家光役を故・沖雅也が演じ(彼の最後の出演作となったのでした)、それを諫める老中・松平信綱役を平幹二郎が演っていたこと。誰がこんなステキすぎるキャスティングを考えたのだろう(ゼッタイ友達になれる)!




家光が愛したオトコたち

さてさて、中奥に100人を超える男妾を侍らせていただの、町の若衆を城に引き入れて乱痴気騒ぎをしただの、いろいろ言われちゃってる家光。そんな家光がラブラブに愛しちゃったとされる二人の男性をご紹介します。

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家光が寵愛した家臣はモチロン二人だけじゃなくて、ほかにもイロイロいるみたいなんだけど(将軍様ともなれば、よりどりミドリだからねぇ)、とりあえず有名ドコロをピックアップしたので、見ておくんな。




■酒井重澄

家光に小姓として仕えた、三歳年下の重澄。
彼をメチャメチャ気に入ってしまった10代の家光は何度となく、家臣が止めるのも聞かず、深夜に重澄の屋敷にお忍びで出かけて行ったとされています。ことのほか家光に愛された重澄は、下総生実2万5000石を与えられて大名となるほどの大出世を遂げました(10代でですよ)。ところが、27歳になった重澄は、病気療養と称して屋敷に引きこもっている間妻妾に4人の子を産ませた事が、家光にバレてしまいます。

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所領を没収されてしまう、重澄。はかない栄華でございました。ホントかどうかはわかりませんが、重澄はその後、かつての同僚正盛が累進するのを見て己の境遇を恥じ、食を断って自害したといわれています。



■柳生友矩

家光の恋の相手として、日本史好きに広く知られておりまする。徳川家の兵法師範として信任されていた柳生宗矩の息子にして、有名な柳生十兵衛の弟であります。武術に長け、相当なイケメンだったことから、家光のハートをわしづかみ☆家光の彼に対する寵愛ぶりは、そりゃもう、北極の氷でも溶かすぐらいのモノだったそうでアリマス。
「カレを13万石の大名にしまぁす♪」と、父の宗矩をはるかに凌ぐ、破格の出世を約束してしまう家光なのでありました。ところが・・・・

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これが気にくわなかった父・宗矩は、病気を理由に友矩を屋敷に連れ戻してしまいます。その後、友矩は病死したとされていますが、父によって暗殺されたのではないかという説も有力。ま、本当に病気になって屋敷に下がり亡くなったのかもしれないけど、享年27歳、あまりにも早い死だったのでした(イケメンよ、永遠なれ)。



ご紹介いたしました二人の他にも、酒井重澄とならんで双の寵臣といわれた堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)などなど、有名なお相手はゴロゴロいるのですが、まぁ、機会があったらまたご紹介いたします(訳:キョーミがあったら自分で調べて!)。

先に挙げた人物と家光の男色関係を否定したがる日本史ファンもいるようなのですが、「異例の出世を遂げたことから、そう噂されただけ」というのが彼らの言い分のようです。でも、「男色関係を考えに入れなければ、異例の出世の理由がわからないじゃないかッ」という反論もあって、ネットでの議論なんか読んでみると、なかなかオモシロイもんです。こんなにオモシロイから、日本史ファンてやめられないんでしょうね、きっと。。。。





家光はネコだった?

家光が男色が好きだったことヨロコブ(?)人達の間で、必ずまことしやかに囁かれるのが、「家光ってウケ(ネコ)だったんでしょ?」ってこと。

主君と家臣は性的関係においても主従関係ですから、主君がタチで、家臣がウケというのが崩せないメンタリティのはずでアリマシタ。ところが家光はウケだったもんだから、家臣たちは「ありえねーよ」ってカンジで厭がっていたという、ウラの定説みたいなモノがあるのでございます。また、「5代将軍・綱吉(生類憐れみの令で有名)こそネコだった!」とか、イロイロと諸説が飛び交う様子も、これまた読んでてオモシロイ!

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でも、タチとかネコって年齢が上がるにつれて変わっていく場合も多いし、相手によって変わるという人もたくさんいます。僕みたいに「タチばっか」という人間ですら、過去を振り返ると100%タチとは言えないのでありまする。
タチ・ネコのスイッチは、個人個人の中に存在するだけでなく、自分と相手との関係性の中に存在する部分もまた、大きい。こればっかりは他人が限定するワケにはいかないんじゃないかなぁ。。。。と思う歌川なのでありました。

さて家光は、このあと町娘出身のお楽の方との間に無事、嫡子を設けます(後の4代将軍・家綱)。そのほか、お万の方やお玉の方(5代将軍・綱吉の母)などの側室も続々と徳川の歴史に登場。
なもんで、これを根拠に「家光は別にオトコが好きだったワケじゃないんじゃない?」と言う御仁もいらっしゃいますが、結婚して子供を作るゲイは現代にもいっぱいいます。ほんの一昔前までは、イヤでもそうせざるを得なかった人が多数存在するのです。
江戸時代は、ホントに面白いセクシャリティを持つ人が沢山いた時代。
なんで、「子供がいる→オトコが好きなワケじゃない」という単純な図式は成り立ちませんので、ゆめゆめ、お忘れなきよう☆