魏志倭人伝記載の「華奴蘇奴国」はどこか? 気になる阿波・矢野遺跡 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 以前、魏志倭人伝に記載されている倭国の30余国の地名比定を行ったが、このうち「華奴蘇奴国」だけは、どうしても比定候補地を見つけることができなかった。今回、この華奴蘇奴国の候補地をあげてみることにしたい。

 なお、私は、候補地の条件として、次のいくつかの留保をつけておいた。やみくもに候補地をあげたとしても、意味がないと考えたからであるが、ここでも簡潔にその要旨を記しておきたい。

 

 1 中国(魏)に使者を送り、朝貢するような国として、一定の人口規模に達していたと想定する。

 その際、一つのクライテリアとしては、魏志倭人伝に記載されている戸数記事に依拠する。倭人伝では、倭国連合に加わっていた30ケ国の総戸数として15万戸ほどが記されている。これは平均して1国あたり5千戸であり、1戸(居住家屋)=4人として計算すると、2万人ほどの規模となる。この2万人という水準は、7世紀の令制国郡の郡(大郡)規模にあたる。

 3世紀前半から7世紀末にかけて、倭国の人口がどれほど増加したかについては、当然ながら記述史料がないので、考古学的資料等に依拠しなければならないが、歴史人口統計学の研究(鬼頭宏、他)により、西暦200年頃から725年にかけて60万人から450万

人ほどの増加したとする数字を採用する。すると、200年から700年の間に倭国の総人口は約7倍に増加したとみてよいだろう。

 その上で、700年頃の国数を66ケ国とすると、一国あたりの平均的な規模は6万人あまりとなり、郡の平均的な規模は6千人ほどとなる。この数字の上に立脚すると、邪馬台国時代の一国の平均規模は、令制の郡よりは若干大きいが、国よりはかなり小さいことと結論することができる。

 ちなみに、令制の郷(こほり)は、50戸(≒1000人)ほどとされているので、邪馬台国時代の国よりはるかに小さい。しかも、500年もさかのぼれば、令制の郷となった地域に居住する人口は、はるかに少なかった(140人ほど!)であったと想定される。

 したがって、以上の見地にたてば、後世の郷(そして村や町)の中に邪馬台国時代の国名(候補地)を見つけようとすることがいかに時代錯誤的であるかがよく理解できるだろう。少なくとも、後世の史料中に候補地を見つけようとするならば、令制の国またはせいぜい郡に求めなければならない。

 

 2 考古学的および人文地理的条件の充足

 このことと関連するが、中国と使訳を通じるほどの国であるからには、多くの人口を擁するだけでなく、その人口を扶養するに足る地理的な条件を満たさなければならない。これは換言すれば、これほどの水田稲作をするに足る沖積平野を後背地に抱えていなければならないことを意味する。

 またこうした後背地の開墾を、そしてそのために交易、海運、手工業(鍛冶業など)を組織する首長(王)を輩出したことが明らかとなるような考古学的証拠(大型墳丘墓、初期古墳、首長館など)があることが期待される。

 そのような条件の欠如している場合には、その比定は説得力を持たないこというまでもない。

 

 3 言語学的な合理性

 従来の研究に依拠すれば、おそらく国名は、漢人が倭人の発語を聞き、適当な漢字で表記したものと思われる。その際、漢語の発声法と倭語の発声法がことなるため、完全な翻字は不可能だったと思われる。したがって過度に完全な対応を求めることはできないとしても、あまりにルーズな対応で済ますことも疑問となる。

 またせっかく古い漢語の発音を再現したとしても、肝心の倭語の歴史的な変化に無頓着であってもならない。とりわけ、邪馬台国時代の倭語のp音(パ行音)が後世にh音(ハ行音)に変化したことには注意が必要となる。一方、倭語のk音(カ行音)が漢音のkやhの音で表現された可能性が考えられ、そこで、h音には注意が必要となる。

 

 以上のようなかなり厳格なルールを設定した上で、魏志倭人伝の国名比定を行ったとき、次のような結果が得られることは、驚きであり、決して無視することができないだろう。

 1 九州島に限定した場合

 対馬ー壱岐ー松浦ー怡土ー那の津ー穂波(?)と北部九州内でたどることのできた国名であるが、その後の結果は、あまりに芳しくない。ただ山門郡(邪馬台国の比定地)や妻郡(投馬国の比定地)などがあげられるほどにすぎない。かりに禁じ手の郷名にまで手をのばしても、無理筋の比定が多い。なぜ、最初の6国については好成績だったのに、後の24国については、急に足取りがつかめなくなるのだろうか、と疑問を投げかけなければならない。

 2 越ー伊勢湾ラインより西側の西日本全域の場合

 この場合には、有力と思われる比定候補地が次々に現れる。しかも、令制の国や郡、あるいは『古事記』に現われるようなかなり限られた地名(百数十)の中に高い頻度で現れる。そして、越ー伊勢湾ラインを越えて東国に行くと、ふたたび比定できるような地名はほとんどなくなる。

 

 私は以上の点について統計解析を行っていないが、直観的に言って、上のことは偶然では決して起きないようなことが生じていることを示している。ただし、このことはすでに以前述べているので、ここでは繰り返さないこととする。

 ここでは次に、どうしても国郡表の中に比定候補地を発見できなかった「華奴蘇奴国」のことについて書き記すことにしたい。

 古い漢字音の研究や倭人伝中の他の事例などからすると、この漢字は、「カナサナ」のように発音するらしく見える。ただし、ここでア音とした音は、オ音やウ音の可能性も否定できないかもしれない。漢語音と倭語音では、母音を発音するときの口腔内の状態や舌の位置によって1対1のきちんとした対応が欠如しているため、そのようなことは生じうる。実際、英語でも、イギリス語とアメリカ語の話者では、college が「コレッジ」のようであったり、「カレッジ」のようであったりする。

 

 この華奴蘇奴国であるが、内藤湖南は、埼玉県にある武蔵国二宮・金鑚神社の地に比定している。しかし、たしかに「カナサナ」の音はあっており、にわかには捨てがたい気もするが、なぜカナサナ国だけが東国の武蔵国にまで飛んでしまうのか? にわかには認めがたい。おそらく内藤も、令制の国郡郷表のなかに「カナサナ」音を持つ地名を発見できずに、音の類似だけで飛びついてしまったのであろう。

 私自身は、そのような事例もあるだろうと、ほぼあきらめていたが、ネット記事の中には、この「カナサナ国」を「ワナサ国」と読み替えて、徳島県海部郡海陽町の「ワナサ・オホソ神社」に求めているものがあることを知った。

 しかし、この比定に問題はないとはいえないであろう。まず「カ」と「ワ」という音の相違の問題がある。華字のもっとも古い音はわからないが、おそらく魏志倭人伝の時代には、「華」はカ行またはガ行に近い音であり、ワと読ませるのは無理ではないだろうか? しかも「ワナサ」は「ワ・ナサ」と分解でき、本来は「ナサ」(潮)の意であったともいう。これは、海民の祀る神だったようである。

 それ以上に問題なのは、この地が魏に使訳を通じるような国のあった地とは考えられないように見えることである。そこには広い沖積平野もなく、考古学的な遺物・遺跡も少ない。

 

 しかしながら、四国、とりわけ阿波国(現、徳島県)というのはよい線かもしれないと思う。

 というのは、四国の考古学研究の成果を見ていると、伊予国の今治(いまばり)、そして阿波国(徳島県)の吉野川流域には、弥生時代後期から古墳時代にかけての、かなり有名な鉄鍛冶(鉄加工)の遺跡・遺構が発見されているからである。特に吉野川の右岸(南側)、旧国府跡とみられる地点の付近にある矢野遺跡、それに加茂宮の前(鍛冶)遺跡は、またそこから海を越えて淡路島にある五斗長垣内遺跡は、四国随一の鉄加工場の発見されている遺跡となっている。

 とりわけ注目されるのは、矢野遺跡である。この地は、沖積平野を抱いており、それらしい考古学的遺跡も発見されており、邪馬台国時代の国の地としては申し分ない。しかも、矢野遺跡は、弥生時代末期の遺跡ながら(ということは、倭国ではまだ製鉄業が行われていない時代ながら)、なぜか、遺跡から砂鉄が発見されているという。これは、実際に謎である。すでに砂鉄を用いた製鉄が行われていたのか、それとも何らかの象徴的な意味があって、砂鉄が集められていたのか?

 謎は謎として残っているが、「華奴蘇奴」は、読みようによっては、「カナスナ」(金砂)と読めなくもない。

 かりにこの想定が成立するとなれば、四国には、すでに邪馬台国の時代に、後の令制国となる伊予・愛媛県(伊邪)、讃岐・香川県(蘇奴の柵)、土佐・高知県(対蘇)、阿波・徳島県(華奴蘇奴)の4つの国が成立していたことになる。

 とはいっても、私もこれが100%事実だというつもりはない。しかし、それでもこれだけの一致が偶然で生じるとも思えない。ともかく、少なくとも仮説として提示しておきたいところである。