世界史の転換点 モンゴル帝国、黒死病およびユダヤ人の説くん美 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 <モンゴル帝国、黒死病(ペスト)およびユダヤ人の大移動>という一見したところ、あまり関係のなさそうなタイトルを掲げましたが、実は、相互に関係しており、またそれがその後の世界史に決定的な影響を与えた大事件であったというのが、私の年来考えてきたことです。

 それがどのような意味なのかについて述べる前に、それぞれについて簡単に説明しておきます。

 まずモンゴル帝国ですが、これはモンゴル草原の遊牧民であったテムチン(チンギス・ハン)とその一族、そしてその後裔たちが作り上げた大帝国であることは言うまでもありません。13世紀中にその版図は、東は朝鮮半島、中国から、西はウクライナ・ロシア平原、ペルシャにまで及びました。朝鮮半島の高麗王朝を服属させたモンゴル軍は、中国(南宋)を支配下におさめて元朝を打ち建て、遂にはヴェトナムや日本にまで軍勢を派遣しましたが、ヴェトナムの場合は、陸路ながら南の猛暑の気候に阻まれ、日本の場合は、暴風雨(台風)のせいもあり、モンゴル軍は撤退を余儀なくされました。もちろん、各国の執拗な軍事的抵抗があったことは否定できませんが、高麗王朝も宋朝も最後にはモンゴル軍に屈服することを余儀なくされてしまいました。

 モンゴル軍が当初、チンギス・ハンの氏族から始まり、戦争の勝利を重ねるにつれ、モンゴル部族やその他の異種族を配下に入れながら拡大しつづけ、しだいにチンギス・ハンの氏族を中核とする部族連合国家の様相を呈していったことは、すでにこれまでも述べたことですので、ここでは詳しく述べないこととします。日本征討軍のほとんどは、高麗人や宋人からなっていたことは、よく知られていることですが、彼らはいわばいやいやながらモンゴル軍中枢の命令に従っていたことは、よく知られている事実です。

 モンゴル軍は、西はロシア・ウクライナ平原を越え、一時はバルカン半島のハンガリー平原にまで達しましたが、結局は、ステップ地域から遠い地域の侵略はあきらめざるをえなかったと言えるようです。西アジアでもペルシャは、モンゴルの版図に入りましたが、小アジア(現在のトルコ)や近東での軍事活動は不調に終わりました。

 

 次の黒死病(the Black Death)ですが、これは14世紀(1345~1351年)のヨーロッパにおいて実に人口の半数を失うほどの大惨事となったパンデミック(世界的感染症)です。

 歴史上、歴史時代のヨーロッパは、古代から近代までに3回のパンデミックに襲われたことが知られています。そして、その最初のパンデミックは541~544年のそれであり、この時、エチオピアから広まった疫病は、エジプト、中東、小アジアへと拡大し、さらにギリシャやイタリアなどの地中海沿岸に拡大しました。当時のヨーロッパには、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)があり、その皇帝はユスチニウス6世でしたが、彼も罹患し、一命をとりとめたという記録が残されています。ともあれ、この時の死者は500万人ほどと見積もられています。

 ヨーロッパを含む世界を襲った3回目のパンデミックは、1890年代のものでした。この時の震源は、国際貿易港であった広東であり、病気はアジア諸国(日本、台湾、シンガポール、インドなど)だけでなく、北米・南米、オーストラリアに広がり、さらにヨーロッパに拡大しました。この時の世界全体の死者数は1500万人ほどとされています。そしてこれをもって、これほどの数の死者をもららすパンデミックは起きていません。(1919年の「スペイン風邪」、世界的な流行性感冒がしばしば指摘されますが、これはウイルス性の病気であり、死者数は、3つのパンデミックに比べれば、比較的限られています。)

 ちなみに、この3回目のパンデミックのとき、香港に居住していたアレクサンドル・イェルシンというロシア人が世界ではじめて、病気を引き起こす原因となるバクテリアを発見しました。このバクテリアは、彼の名前をとって、Y(イェルシン)バクテリアとなずけられています。また病気の感染経路も特定されました。結論的に言えば、バクテリアを運んでいたのはノミであり、そのノミが血を吸うためにネズミに付き、そこから人に感染したことが判明しています。

 

 最後にユダヤ人ですが、第二次世界大戦後、近東にユダヤ人の居住する「イスラエル国」が建設されるまで、世界中の多くのユダヤ人が居住していた地域は、第二次世界大戦介し前の領域で言うと、ドイツ(特に東部)からソ連(特に西部)の領域でした。しかし、このあたりの領域は、中世から近代にかけて国境線が頻繁に移動していた地域であり、中世までたどると、その多くは、ポーランド王国・リトアニア大公国の領域に含まれる地域でした。

 しかし、実は、西暦67年以降離散したディアスポラ・ユダヤ人は、最初からこの地に居住していたわけではありません。その多くは、現在のスペイン領から南部フランス領にかけて居住していました。それが、なぜ中世末から近代にかけてポーランド王国領に住むようになったのでしょうか?

 

 私たちが学校で世界史を学んだとき、上記の3つの出来事を学ぶかもしれませんが、それらが互いに関係していることまでは教わらないかもしれません。しかし、実際には、かなり密接に関係しているのです。

 そこで、1345年に始まるパンデミック(黒死病)がなぜ広まったのか、もう少し詳しくみることにします。

 最初に、上でモンゴル帝国が13世紀中にモンゴル部族を中核として建設されたユーラシアのステップを東端から西端までつなげる大帝国であったことを思い出してください。しかし、この大帝国は、つねに安定した領土を保持していたわけではありませんでした。特に強制的に帝国内に組み込まれた民族は、その利害に反する限り、しばしば離反する可能性があり、実際、離反しました。その一つが黒海の商業都市カッファ(Caffa)にもありました。この地は、モンゴル帝国の一部でしたが、事実上、イタリア商人によって占拠されていました。あまり詳しい話をする必要はないかもしれませんが、イル・ハンの率いる軍がペルシャ湾の奥にあったバクダッドを壊滅状態に陥ったのち、イタリア商人は、ペルシャの北西部に商業路を変え、そこから黒海東岸またはカスピ海の東西岸を通って草原に出るルートを開拓していたようです。黒海のカッファは、そのようなイタリア遠隔地商人にとって重要な拠点だったと考えられます。

 ところが、1340年代の中葉になってモンゴル軍は、この地をイタリアのジェノヴァ商人から取り返そうとして軍事攻略をはじめます。多くの歴史家が同意するところでは、この軍事進攻の時に、ゴビ砂漠からペストに感染したネズミが持ち運ばれ、しかも、すでに都市攻略前に兵士が感染していたようです。しかし、モンゴル軍は撤退しませんでした。むしろ同軍は、イタリア商人の住む城塞を攻撃するとき、その死体を(投石器のような装置を使って)城内に投げ入れたと推測されています。

 この時すでにジェノヴァ商人の間では、恐ろしい黒死病という災難についての情報が伝わっていたとみられます。

 彼らは、命からがら本国に逃げ帰ろうとします。しかし、イタリア本国でも、このパンデミックの情報は、すぐに伝わったと思われます。黒海から逃げ出したジェノヴァ商人は、さしあたりシチリア島のメッシーナに逃げ帰ります。メッシーナでも、黒死病を恐れて、黒海から逃げ出してきた商人たちとの接触をさける努力は実施されていたようですが(日本のコロナ騒動でも、最初、乗員・乗客が横浜港に停泊したクルーズ船から降りることができませんでしたが)、それでも何らかの接触があったのか、シチリア島人に感染者が出始め、やがてシチリア島は壊滅状態になりました。

 そして、病気は(つまりバクテリアのキャリアーであるノミやネズミ、人は)、イタリア本土に広まり、そこから南仏のマルセイユ、パリに広がり、さらにカレーからドーヴァー海峡を渡り、イギリスに到達します。それはまたアルプス(スイス)を経由してドイツに広がり、そこから(1349年頃)スカンジナビア半島やロシアにまで広がりました。ただし、当時のロシアはきわめて人口希薄地域であり、特にモスクワのある北方では被害が相対的に小さかったかもしれません。

 かくしてヨーロッパ、特に西欧は、壊滅的な打撃を受けることになりました。西欧は、東欧のロシアとは異なってモンゴル軍の直接的な支配下に入ることはありませんでしたが、それに代わってゴビ砂漠からステップを通して破壊的な惨事を受け取ってしまったということになるかもしれません。そして、この相違が西欧とロシアのその後の発展の相違をもたらしたのではないかと思いますが、そのことは後で詳しくみることとします。

 

 

 この地図では示されていないが、モンゴルから中央アジアを通り、カスピ海の北辺、黒海北岸にいたる「ステップの道」が存在していたことは確からしい。

 

 ここで、もう一つの点、ユダヤ人の問題に移ります。

 14世紀のスペインや南仏で、激しいユダヤ人抑圧が行われていたことは、もしかすると西欧ではタブー視されているかもしれませんが、史実です。でも、それはなぜ生じたのでしょうか?

 そのことを理解するためには、当時の人々がパンデミックの原因をどのように捉えていたかを知る必要があります。

 はっきりした原因がわからず、医学も古代以来進化していなかった状態におかれたままで、悲惨な運命にあった当時の人々は、病気の原因を様々に説明したようです。「血の汚れ」、「空気の汚染」などが疑われ、実際、病人の身体から血を抜く「治療」が行われたり、さらには昼夜火を焚き、空気の汚れを祓うようなことも行われたとされます。当時の教皇クレメンス6世も使用人に昼夜火を焚き続けさせたといいます。1665年のロンドンの plague でも、石炭を燃料に火を焚き続けた人々がいたと言われていますが、そこには空気が汚染されているという感覚があったのかもしれません。ただし、ある人々が語るように、火によって空気が清浄化されることはなくても、ノミ退治には一役買っていた可能性は否定できません。

 病気の原因の中でも、「神の怒り」という思想は、少しやっかいです。つまり、神が人々の罪、堕落を怒っているという思想も当時のキリスト教社会では、考えうることでした。その場合、どうしたらよいでしょうか?

 一つの方法は、「祈り」であり、神に自分の罪を認め、謝罪を要求するような行為です。しかし、これは全能なる神にある種の命令を下す行為とも思われる危険性があります。ちょうど、子供が親に対して「いい子にするから、玩具を買って」とねだるようなものです。祈りは違うとはいっても、圧力をかけるという意味では同じです。そこで、世の中には<自己を罰する行為>を行う人々の集団も出現しました。この行為の具体的な現れは種々様ざまですが、ここでは措いておきます。

 しかし、人には自分たちの身に不幸が生じたとき、その怒りを「外に向ける」という危険な習性があることにも注意を向けなければなりません。実際、その事件は起きました。

 1348年、Savoy で人々が病気の拡大は、ユダヤ人の仕業であるとして、住人以上のユダヤ人が捉えられ、拷問されました。そして、この時、一人のユダヤ人が拷問の責め苦に耐えられず、「自白」したといいます。かくして哀れなユダヤ人は、火あぶりの刑に処せられました。しかも、事件はそれにとどまらず、ヴェニス、トゥルース、地中海域でそれを行ったというニュース(今風に言えば、フェイク)は、各地に飛び火して、多くのユダヤ人が犠牲になりました。

 ただし、西欧人の名誉のためにいうと、すべてのキリスト者がそのようなフェイクに踊らされたわけではありません。

 教皇クレメンス6世は、そのような根も葉もないフェイクを信じないように信者たちに説得したといいます。彼は、「嘘のうわさ話」、「嘘をつく悪魔によってそそのかされたキリスト者」とならないように説いています。

 また当時のポーランド王、カジミール3世は、自国の領内にユダヤ人を招き保護する方針を発表し、移住してきたユダヤ人を受け入れました。17~19世紀の史料では、そうしたユダヤ人は、mesteczko (メステチコ)と呼ばれる小都市=居住区に集住していたことがわかります。彼らの多くは、「町人」(meszcane)であり、農業外のさまざまな職業に従事する階層でした。

 またRegensburgでは、237市の指導者がユダヤ人の声明を守る同盟を結ぶことを決定しています。

 

 こうしてかつてのポーランド王国(リトアニア大公国)には、多くのユダヤ人がアジールを求めてきましたが、その彼らもそこでいつまでも安住できたわけではありません。よく知られていることなので、詳しくは述べませんが、ポーランドはドイツ、オーストリア、ロシアに分割され、ユダヤ人もそれぞれの国に分かれました。そして、それぞれの地域で、ユダヤ人に対する迫害運動が生じました。そのきわめつけが、ナチス・ドイツによるホロコーストであることは、多言を要しません。

 しかし、そのユダヤ人(の子孫)が戦後イギリスの政策によってシオニズム運動を実現するために、パレスチナに国家を建設され、しかも今やユダヤ人がパレスチナのガザでジェノサイド(大量虐殺)を行っています。それを見るに及び、人の業の深さを感じないわけにはいきません。

 

 少し話が飛びがちになりましたが、善悪の価値評価を抜きにして語ります。モンゴル帝国の成立がその後の世界にきわめて大きい影響を与えていることが理解できるかと思います。

 私の意見では、ヨーロッパに限定しても、モンゴル帝国の成立のその後の事件史は、西欧vsロシアという二つの異なった文化圏をもたらす要因の一つになったように思われます。

 ロシア。この地域は、ステップに直接接している地域であり、その支配を受け入れざるを得なかったところです。本来は、草原と北方森林の地域であり、人口の希薄な所でしたが、モンゴル支配下で苦しんだ歴史を持ち、そこからの独立の過程で、軍事は政治体制の中央集権化の傾向を強く持つこととなったように思います。(ただし、1991年にロシアがソ連をなくし、無血で民主化を達成したことは、それだけになおさらすごいことと思います。)

 西欧。これに対して、西欧は、ステップから遠く離れており、モンゴル帝国の支配を逃れることができました。西欧で発展した封建制は、どちらかというと分権的な政治体制です。

 ただし、この地域は、モンゴル帝国がなければ免れたかもしれないパンデミックの破滅的な影響を受けました。人口は半減し、農地は放棄され、都市はゴーストタウンと化し、インフラも崩壊寸前でした。とはいえ、その後に西欧に生じたことは、決して悲観的なことばかりではありませんでした。

 農民の地位(特に主人=封建領主に対する地位)は、飛躍的に上昇しました。移動の自由が現れ、都市への移住が盛んにおこなわれるようになりました。女性の地位が上昇しはじめました。医学をはじめとする実証的な科学が発展しはじめ、ルネッサンスの鼓動が始まるのも、この直後です。それまで、科学の最先進地域は、西ユーラシアに関する限り、イスラム世界でしたが、この時以降、西欧が先進地域になったようです。イスラム地域に蓄積されていた多くの文献がヨーロッパ諸語に翻訳され、紹介されてきます。西欧の科学(天文学、化学、物理学、医学など)が飛躍的に発展してきたのもこの時期です。

 現実の世界は、不確実なものであり、ながい時間をかけて、事実を確認することが必要となります。したがって科学(学問)が発展するためには、一人の天才が一時期に出現するだけは不十分です。一つの発見が次の疑問を生み、次の研究をもたらします。

 私たちは、ともすると、科学的研究の結果だけを見て、途中経過を見ない傾向があるため、科学的知識は確実性に満ちていると誤解することがあります。しかし、それは長い時間を要する持続的な過程であり、それを持続させる「制度」こそが科学発展の基礎となります。西欧が近代に科学の持続的発展を実現したのは、西欧人の天才というよりは、観察の長期持続を可能にした制度にこそあるというべきでしょう。

 マックス・ヴェーバーが述べるように、能力の突出という点ではかっての中国はすごい国だったかもしれません。しかし、儒教体制と科挙の制度のために、一人の天才が現れても、それで終わってしまい、多くの才能が儒教に吸い取られてしまい、長期に持続する発展はありませんでした。しかし、世界は確実に変化しています。かの国はすでに儒教体制の国ではありません。日本も長期にわたって持続する制度を構築しなければ、いつか衰退していってしまうのではと心配になります。

 

 最後に触れた点は、もう少し詳述しなければ、イエスともノーとも言えないテーマかもしれませんが、いつか(私の気力が持続すれば)検討してみたいとおもます。