DNA解析の示す「匈奴」と「フン族」との関係 漢北方の匈奴は4世紀のヨーロッパに現れたフン族か? | 書と歴史のページ プラス地誌

書と歴史のページ プラス地誌

私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 匈奴は、東アジアにおける最初の騎馬遊牧民として知られている。それが飛躍的に発展したのは、前3世紀に冒頓単于なる者が匈奴帝国を建設し、漢を脅かした。冒頓単于の率いる匈奴軍は、前201年、大挙して漢の北方・山西省に侵入し、漢の高祖はこれを撃つために先発隊をひきいて平城にいたったところ匈奴軍に囲まれてしまった。この時、知将・陳平の策によってあやうく難を逃れたという話は有名である。結局、前198年、両国は和議を結び、漢が匈奴に種々の貢物を贈ることとなった。

 匈奴の国家体制については、まずその頂点に単于と、単于に直結した特権氏族があったが、それが匈奴国家体制の中にあったすべてではなく、その下には匈奴種の他の氏族・部族があり、また非匈奴種の諸部族があったと考えられている。ここでは、匈奴の国家体制を詳しく論じることはできないが、後論との関係で、様々な種族の騎馬遊牧民が匈奴国家に統合されていたことを確認しておきたい。

 匈奴は、冒頓単于と老上単于の時代に黄金時代を迎えたが、漢帝国に武帝が現れるに及び、急速に衰退に向かうことになる。武帝は、連年、匈奴の領域に奥深く大軍を遠征させ、その結果、匈奴はオルドス・甘粛を手放し、単于庭が漢軍の攻撃を避けて、ゴビ以北に撤退することを余儀なくされた。こうなると、農耕地帯の漢から絹や穀物などの貢物を得るどころの事態ではなくなり、その結果、単于の政治的求心力も失われてゆく。これに乗じて、武帝は西方へのさらなる進出をはかって、甘粛に敦煌などの4郡を置き、匈奴勢力を排除しながら、中央アジアにまで勢力を拡大した。前60年、宣帝の時代、東トルキスタンにあった匈奴の日遂王が単于と衝突して、支配民を率いて漢にくだったが、匈奴の東トルキスタン支配による収奪を完全に終わらせた。

 こうした事態は、烏桓、烏孫、丁零などの非匈奴種諸族の離反を招き、匈奴国家本体の背後を攪乱した。そして、それが匈奴中枢部の分裂を招く要因となったことも自然のなりり行きであった。結局、匈奴は東西二つに分裂し、漢に服属し、そこから衣食の補給を受けようとした東匈奴単于(呼韓邪)と、あくまで不覇独立を唱えて西のキルギース草原に移った西匈奴単于の対立に到った。前36年、前者は後者を撃った。匈奴国家の衰退はさらに続く。紀元48年、匈奴国家は南匈奴と北匈奴に完全に分裂し、死闘を繰り返すようになった。そして、南匈奴は、烏桓、鮮卑、丁零とともに北匈奴を攻め、結局、91年、北匈奴は本拠地をつかれ、イリ河流域方面に逃れ去り、ここに匈奴国家は瓦解した。

 

 一方、それからおよそ300年ほど経った380年代、ヨーロッパに「フン族」(Huns)なる騎馬遊牧民がはじめて文献に登場する。これは、アラン族やゴート族を西側のローマ帝国領内に追いやった正体不明の民族として知られる民族である。その王・アッティラ自身も、ローマ帝国領内に入り、各地を軍事的に征服した。

 

 ところで、いつの頃からか、中国の北方にあり漢を苦しめながら、起源1世紀末にステップ(草原)地帯のイリ河流域方面に移っていった匈奴と、4世紀末にヨーロッパ史に登場したフン族が同じ種族ではないかという説が唱えられはじめた。こうした推論は、決して突拍子もないものではない。それには、いくつかの理由がある。一つは、ステップは、東のモンゴル平原から西のカルパチア盆地(ハンガリー平原)まで概ね草原によってつながれており、その間には移動を妨げるような大きい地理的な障害がない。そのため、古来から西から東へ向かって、また逆に東から西に向かって人々(遊牧民)の移動があった。300年間に遊牧民集団が東から西に移動したと考えても、おかしくはない。しかも、東アジア史における匈奴の土地(キルギス、トルキスタン?)と、ヨーロッパ史におけるフン族の移動前の故地(カスピ海東側?)とはかなり接近している。最後の第二に、匈奴(xiongnu)とフン族(Huns)との間には、音の類似があることである。現在の北京音では、「匈」の音はxiong(シオン)のようであり、h 音とは異なっているが、共に歯音であり、歴史的には h 音や kh 音であった可能性がある。第三に、考古学的研究からの示唆があり、匈奴の遺跡(墳墓)とフン族の遺跡(墳墓)との類似性がある。

 

 

 しかし、それにもかかわらず、匈奴=フン族説は、現在まで通説となることはなかった。その決定的な理由は、どちらかというと中立的なものであり、結局、否定する積極的な根拠はないものの、同一説を支持する積極的な理由もない、ということに尽きるといってよいだろう。

 

 ところが、ここに、つい最近(今年2月)、漢の北方にあった匈奴族の古い個体のDNAと、4~6世紀のフン族の個体のDNAを解析し、比較した論文が現れた。この論文は、2017年3月3日に現れた別の論文を前提に書かれており、それを前提として分析が行われている。おそらく、今後、匈奴とフン族との関係についての議論は、この分析を前提として行われなければならないものと思われ、きわめて重要に思われるので、その結論を簡潔に紹介しておきたいと思う。

 下図は、分析結果を示す主成分分析の結果を図示したものであり、ここからいくつかの結論を導きだすことが可能となる。

 ざっと説明すると、図の右側は、東アジア人の遺伝子的な位置を示すクラインとなっている。この東アジア・クラインは、上方が北方東アジア人(極東)のクラインであり、下に向かうほど、南方クラインに近づく。その中央は、ほぼ東アジア草原の人々の分布域にあたる。

 他方、図の左側は西ユーラシア人(ヨーロッパ人)の分布域であり、そこから帯状に東アジア人の分布域に延びるクラインがある。これは、主として、ステップが東ユーラシア人と西ユーラシア人の交雑の地であったことを示している。換言すれば、西ユーラシア人も、東ユーラシア人も、孤立した集団をなしてはおらず、長時間の間に交雑したことが、この図から判明している。

 このことが示唆するように、匈奴国家の領域に入っていた人々は、最初から様々な集団の交雑集団だったのであり、また東アジア史から匈奴が消え去ったのちも、匈奴集団が他の集団と交雑しつづけたことを想像させる。ただし、最初に東アジア史に登場した時の匈奴集団は、より東アジア集団に近く、彼らが西に移動するにつれて、より西ユーラシア人的な特徴を帯びたであろうことが予想される。

 実際、下図でも、そのことははっきりと示されている。まずはっきり言えるのは、フン族集団の中には、明確に西ユーラシア人集団に特有の遺伝子を持つ一群(一番左側の紫集団)がみられることである。この集団は、古匈奴集団には、まったく認められなかった遺伝的要素をなしている。

 しかし、それでは、フン族が匈奴とまったく無関係な集団だったかというと決してそうではない。というのは、まず、フン族の中には、匈奴国家の特権的階層(エリート層)とまったく同じ遺伝子的特性を持った個体がみられるからである。明らかに、匈奴の特権氏族に属していた集団の子孫がフン族の中に見られるのである。また次に西ユーラシア集団と東ユーラシア集団の中間的位置にあるクラインに匈奴に属した個人も、フン族に属した個人も、見られるからである。そこで、大雑把に匈奴集団に特有な遺伝子特性を持つ者をオレンジ色の楕円で囲み、フン族集団に特有な遺伝子特性を持つ者を青い楕円で囲むと、両者は、ぴったりと一致してはおらず、ずれが認められるとはいえ、かなりの程度の一致が認められる。

 

 これが意味していることは明らかである。繰り返しになるが、結論すると、匈奴は2~4世紀の間に西側に移動していったことは確かである。特にフン族の中に匈奴国家の特権氏族に属していた個人の遺伝子と同質のものが存在することは、見逃せない。ただし、匈奴が西に移動したといっても、その構成は交雑によって次第に変化してゆき、西ユーラシア人的な要素を取り入れるにいたったことは、否定できない。300年というと、ほぼ10世代の時間に匹敵する。匈奴という騎馬遊牧民の集団が西に移動していったという仮説が基本的に正しかったといっても、その間に多くの遊牧民集団を取り込んでいくというのは、当然ありうることである。むしろ、「純粋な」匈奴集団が維持されたと想定することに無理がある。とはいえ、おそらくハンガリー平原(カルパチア盆地)に移住していった集団が多くの西ユーラシア集団を取り込みながら、アジア系の言語を維持し続け、その遺産が現在のハンガリー語に生きていることにも、驚かざるを得ない。