梅棹忠夫『文明の生態史観』をモディファイする 2 北欧と日本列島の地政学上の位置 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 ユーラシア大陸の西端と東端という両極に位置している西欧(特に北欧)と日本列島には、共通する地政学的な特徴がある。それはユーラシアの中央部を走るステップ地帯から離れているということにある。これは両地域とも、ステップ地帯に住む遊牧民族集団から隔離されていたということであり、そこからの軍事的脅威から距離をおくことができたということである。

 ステップ地域からの挑戦は北方ではロシアとバルカン半島が、南では中国と西アジアが吸収してきた。これらの地域が一種の緩衝地帯だっということができる。

 北欧がステップからの挑戦を免れていたことは、古代にスカンジナビア沿岸域の人々が、その生態的・地理的条件にも助けられて、多くの小コミュニティに分かれて暮らすことできたことから知ることができる。この地域の人々が異教信仰からキリスト教信仰に改宗したのちでも、それらの小王国は、教会の鐘の音が王国中で聞くことができる(!)ほどのサイズだったことからもわかる。そこでは人々は、"live and let live”(相互不干渉)の原則の下で暮らすことができた。大なり小なり、西欧では、こうした状態の例外はごくわずかな地域で見られるに過ぎない。

 ここでも8~9世紀に封建制が成立する。そして、封建制の原理は、プロの戦士階層が国王を頂点にして諸侯、騎士が相互に誓約関係を取り結び、騎士が軍事奉仕をする代わりに王や諸侯が騎士階層に領地を安堵する点にある。しかし、この軍事組織は、レント(地代)を支配下の農夫(serfs)から収奪するための体制であり、レント収入を確保するための体制であった。とりわけ、ゲルマン民族移動後もしばらく続いた諸部族間の騒乱がおさまり、封建制が安定するとともに、レント収入を確保するための体制としての性質は強くなり、ついには中世の末期ともなれば、戦士階層としての騎士身分自体が不必要となってくる。

 このような状態は、基本的に日本列島でも見られる。職業的戦士階層は、一方では京における天皇・貴族の侍(奉公人)の役割を果たす階層であると同時に、在地において百姓から地代を収取する階層であり、その発展の経過中に複数の階層、つまり庇護者の層と庇護を受ける階層との分化が生じたことが知られている。庇護する上層者がしばしば源頼朝のような清和天皇の子孫にあたる名族であったことは、その配下の階層が在地における地代取得者であり、百姓に直接に接する階層であったことを否定しない。

 

 一方、ステップ地帯からの軍事的侵攻の危険性に対処することを余儀なくされていた地域では、その軍事編成は、域内のレント取得関係で結ばれた戦士階層の編成ではなく、レントを得ることが期待できないでけでなく、外部世界に奪われることを阻止するために編成しなければならないような軍事組織を構築することを余儀なくされていた。

 このことは、元軍の挑戦を受けたとき、鎌倉幕府の執権・北条時宗が対処しなければならなかった事態を考えれば、よく理解できるだろう。時宗は、ただ元軍の軍事進攻を防ぐためにのみ、御家人をはじめとする武士たちに動員を命じなければならなかった。今風に言えば、防壁を築くための支出、軍役などは、それまではレントを得るための投資であり、前払いであった。しかし、役が終わっても、取得した領地はなく、幕府も御家人も得るところはなかった。しばしば鎌倉幕府の崩壊の一つの要因は、ここに起因していると言われている。

 

 

 

 もちろん、以上の点は、想定されている一般論にすぎない。この一般的な想定が正しいかどうかは、具体的な事例に即して見なければならないであろう。これは、ユーラシアという広大な領域の各地域に関する詳しい歴史的な知識を必要としており、私などのよくするところではないが、無謀を承知でこころみてみたい。

 

 すでに以前に書いたように、最近5000年のヨーロッパの歴史自体がステップとの関係なしには語れない。以前書いたことと重複するが、簡単に言えば、次のようなヨーロッパ植民の経過が指摘できるだろう。

 まず今から8000年ほど前に、メソポタミアで発生した雑穀栽培(農耕文明)は、アナトリア(トルコ)を通り、バルカン半島に達し、そこから南欧に到達した。そして、地球が温暖化して氷床が北方に後退するとともに、アナトリア農耕民は北に向かって植民域を広げた。おそらくこの時にヨーロッパの狩猟採集民とアナトリアから進出した農耕民との交雑が生じたと思われる。

 しかし、ヨーロッパ人形成の物語はそれで終わりではない。新たな移住の波がステップ地帯から現れたからである。その震源地は、黒海北方の「ヤムナヤ文化」(上図の Y 字)であり、時期的には今から5000年前以降のことである。この地から半牧畜民がステップ北方=ヨーロッパの農業地帯へ、といってもまだその当時は森林におおわれていた農業地帯への移住が開始されたのである。それがどのような事情によるものだったのかはっきりはしないが、ともかくヤムナヤ牧畜民のヨーロッパ移住が行われ、その結果、ここにアナトリア農耕民とヤムナヤ牧畜民との交雑(総合)が生じ、現代のヨーロッパ人に直接つながる人間集団が形成された。

 ちなみに、こうしたヤムナヤ文化集団の話していた言語(祖語)が現在のヨーロッパ諸語の基層言語となったことは、現在までにほぼ明らかにされている。これらの言語が文法(統語法)から見ても、語彙からみても、きわめて強い共通性を持っているのは、共通祖語から分かれてから5000年しか経過していないという時間的深度の浅さによるものである。

 また現代ヨーロッパ人のものと考えられているブロンドヘア、青い目、薄い肌色は、先住のアナトリア農耕民のものではなく、ヤムナヤ文化集団由来のものであることも判明している。

 このヤムナヤ文化集団がどのような文化を持つ集団であったかについても、考古学は多くのことを明らかにしており、それは次のようにまとめられるだろう。

 1,クルガン(大規模な墳丘墓)、移動式住居 

 2,遠隔地商業、

 3,スポークを持つ車輪の発明、かなり強固な青銅製品の生産、戦車(チャリオット)

 4,牧畜、馬と馬車

 これらの文化、特に強力な軍事力を持つ集団が、先住の農耕民にとって何を意味したか、現在の私たちには想像するしかないが、それは平和的な混交・交雑であったとはいえない可能性が高い。とりわけ、先住民の男性のDNAが後世に伝えられなかった可能性が高い、と言われている。

*ヤムナヤ文化集団の一部分は、東方(中央アジア)に移住してシンタシュタ文明を築いた。その一部は、そこから南下してバクトリアに到達したのち、東西にわかれ、一部はインドに向かい、一部はイラン高原に向かったが、これについても、以前簡単に触れたので、ここでは省略する。

 

 しかし、ひとたび交雑が完成し、ここに牧畜と雑穀農業との組み合わせにもとづく生業(後のヨーロッパ経済の基礎をなすもの)が成立すると、平和は戻ったものと考えられる。

 とはいえ、ステップが周辺の農耕民・狩猟採集民にとって平穏をうちくだく可能性の高い地域であることに違いはなかった。こでは、そのすべてを検証することはできないが、すくなくとも2つ,3つの事例については触れておかなければならない。ここでは、特にアジア人にとってなじみの薄い西ユーラシアの事情について触れる必要がある。

 (続く)