20世紀初頭の米国(アメリカ合衆国)にソースティン・ヴェブレンという経済学者がいました。この人は、現代の資本主義経済分析における制度派の創設者であり、当然ながら、現代経済の分析でもよく知られている一級の経済学者といってもよい人であり、また著名な経済学者、ジェームス・ガルブレイスの師匠に当たる人としても知られています。
彼の経済学が制度派と呼ばれる所以は、経済社会における諸制度の進化を深く分析したためですが、この「進化」(evolution)
は現実の歴史の中で生じることはいうまでもありません。そこで、彼は、現代企業に関する理論書とならんで、経済の歴史に関する著書も著わしており、その他に当時の最新の考古学研究の成果を吸収して、ヨーロッパ古代史に関する多くの論文も世に問うています。ただ彼の書く英文は、米国人の中ではもちろん、イギリス人の書くものと比べても、きわめて難解であり、翻訳者泣かせです。そのためもあるからでしょうか、著書としての全訳はまだ出版されていません。
ここでは、そうした論文の中から「ブロンド人種とアーリア文化」(The blond race and the Arian culture)という論文を紹介したいと思います。この論文は、Lecturer in Economics (1913)という著作集に収められており、ネットでも読むことができます。この論文のタイトルについて、急いで説明することにしますが、実は、ヴェブレンは、「人種」(race)という概念を本質的には拒否していますが、世界には様々な遺伝的形質を異にする集団(people)がいることも否定できず、世間では、便利であるがゆえに、そうした集団間の差異を示しています。ヴェブレンもまた世間一般の用法が便利であるために、便宜的に使います。しかし、本質的には、すべての人間集団は、雑種(hybrid)であり、様々な集団の交雑(hybridation)によって成立したと説いて、人種という観念は成立しないと述べています。また「アーリア」という用語も問題含みですが、これについては、後で触れることにします。
20世紀初頭というと、ヨーロッパでは、メンデルの法則やダーウィンの進化論は、すでに常識的な知識となっており、その線に沿った考古学研究が盛んにおこなわれて多くの成果を上げていました。またそうした研究に依拠して、ヨーロッパ人集団の成立に関する様々な見解が提示されていました。明治時代以降の日本の考古学も、そうした変化の中で発展してきたことはいうまでもありません。一つの研究成果が示されると、「それで終わり!」とはならずに、むしろ即座にそれを前提とした次の研究が始められるという連鎖のつながりには、西欧人のメンタリティに感心せずにはいられません。
それはさて、本題に入ることとします。が、一つだけ、簡単に現在の時点におけるヨーロッパ人集団の成立に関する通説的な見方、つまり考古学とDNA解析の協働による成果に触れておくことにします。
簡単に言えば、今から1万年より以前、ヨーロッパには、狩猟採集民が居住していました。この集団は、6万年ほど前に出アフリカを果たした母集団から分岐したものであり、その母集団の中には東アジアに向かった一群がいました。この簡単な説明が示すように、東アジア古集団とヨーロッパ古集団は、かなり近い集団と言うことができ、ヨーロッパ狩猟採集民の形質は、現在のヨー ロッパ人と異なり、むしろ東アジア人に近かったとみられています。
ところが、ここで最初の大きい交雑が生じます。つまり、アナトリア(現在のトルコ領)付近で雑穀(麦類など)を栽培する集団が出現し、その集団が一部は東に向かって拡散し、一部は西に向かって拡散しはじめます。ここでは西に向かった集団だけを追うことにしますが、彼らはおそらく地中海沿岸に沿って進み、バルカン半島から現在のイタリア、スペインにまで行き、そこからさらに北方に向かって拡散したと考えられています。ただし、1万年前というと、まだ寒冷な気候が終わっていない時期であり、ヨーロッパの北部には巨大な氷河が残っていた時代です。これが温暖化に変わり、氷河が解けてしまうのは、7000年前頃のことですから、北方への拡散は、氷河の後退とともに徐々に進んだとみられています。ともかく、先住の狩猟採集民と後発のアナトリア農耕民との出会い、交雑は、この時に生じたとされています。ここまでは、21世紀の初頭でも、明らかとなり、通説となっていた事柄です。
ところが、同じ20世紀初頭にリトアニアの女性考古学者(ギンブタス)が、この交雑があった時よりずっと後に、黒海の北方に存在したクルガン文化(クルガンは墳墓を意味するロシア語)の集団がヨーロッパ、特にヨーロッパの北部に移動してきたと主張し、それがヨーロッパ人を構成する新しい要素となったことを説きました。しかし、20世紀初頭の段階ではこの主張はまともにとり上げられなかったようです。
この古い学説が光を浴びはじめたのは、20世紀末から21世紀初頭にかけての時期、つまりごく最近です。新しいDNA解析によって現代ヨーロッパ人の遺伝子が黒海北岸の草原地帯にすむクルガン文化人の遺伝子抜きには理解できないことが、疑う余地のない事実として認められました。しかも、明らかになったのは、クルガン文化の中でも、ヤムナヤ文化(ウクライナ語ではヤムナ文化)として知られる人々のものでした。この集団がある時期(5千年前~4千年前)に主に北方のヨーロッパに移動しはじめ、住はじめたことが示されたわけです。このヤムナヤ文化集団の子孫たちとみられる集団は、ヨーロッパでは、主にケルト人およびゲルマン人として知られている人々です。彼らは、現在のフランス、ドイツ、イギリス、スカンジナビア諸国(いわゆる北欧)です。またそれより東側のスラブ系諸民族の居住する地域(中東欧~ロシア)でも、少し後に、同じヤムナヤ文化系の集団が移住したことを示す遺伝子上の証拠がはっきりしています。これらヨーロッパ北方諸集団は、形質的には、長頭・ブロンド、青い目を特徴としているとされており、それはその通りです。ただし、長頭・ブロンド集団は、決して純粋な形で(彼らだけで)暮らしていることはなく、他の形質(黒髪、褐色の髪など)の人々と混じって暮らしています。ともあれ、意外に思われるかもしれませんが、このヤムナヤ集団は、ステップ草原に暮らしていたことが示すように、牧畜を主たる生業とする人々でした。
以上の点を念頭においた上で、ヴェブレンの論文を検討してみます。ただし、この論文を検討することにした理由は、20世紀中の考古学やその他の科学の発展を検証するという意味だけでなく、この論文がヨーロッパにおける歴史とその特徴を理解するためにきわめて重要なように思われるからです。
前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ることにします。(以下、次回以降。)