古代の東アジアにおける集団と言語 「トランスユーラシア諸語」への二三の補足 | 書と歴史のページ プラス地誌

書と歴史のページ プラス地誌

私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 前回の部分について若干の補足をしておきます。

 印欧語の親族関係については、それらがほぼ母なる祖語から分岐して生まれた娘言語と位置づけられているといってもよいかと思いますが、統語法や発音以外の語彙の点では、すべての言語が等しい割合で共通の語彙を共有しているわけではありません。例えば同じ西部ゲルマン語から派生した英語とドイツ語は、かなりの割合で語彙を共有しており、スワデッシュの基礎語彙の中でも特に基礎的な語彙(下図の9単語)を見ると、すべての単語が共通しています。しかし、その英語もフランス語からドイツ語とほぼ等しい数の語彙を受け取っているため、英語学習者がフランス語単語と共通の単語、40%近くを学習することになることもよく知られています。しかし、そのフランスを生み出す元となったラテン語の語彙についてみると、英語と共通するものはかなり少なくなります(下図では、魚、父、母のみ)。またギリシャ語、ロシア語(スラブ語)、サンスクリット、リトアニア語となると、共通語彙はもっとすくなくなり、すべてに共通するのは、下の例では「母」を示す単語だけとなります。しかし、「鼻」を意味する単語のように、ギリシャ語を除く他の言語に共通するものや、またロシア語、サンスクリット、リトアニア語などグループだけに共通する語彙も見られます。総じて言えば、各言語群を越えて共通する基礎的な語彙がともかく存在するというのが、印欧語の世界では、常識となっています。これは、各言語群が分岐した年代が異なるため、当然と言えば当然です。

 ところが、この常識は、東アジアの言語群については、存在しないといっても過言ではありません。かつて、専門の言語学者が膨大な外国語の(何万もの)単語の中から日本語に類似のものを必至で探しだす時代がありました。しかし、その結果、「見つけ出した」といわれているものを見ると、多くの人が常識的な眼でみると、あまり似ていないような単語もあり、その場合でも、ある種の音韻転訛が生じたために一見すると異なって見えるとするような無理な説明が行われることがあったようです。

 実際に、前掲の論文が依拠した資料(2百数十の語彙を含む)から上記と同じ9単語を取りだして、相互に比較してみると、ここではヨーロッパ諸語の場合とはまったく異なった情景が現れます。トルコ語、モンゴル語、ツングース語(満州語)、朝鮮語、日本語の5つの語群のそれぞれの内部では、方言間で同じ語彙が使われていますが、語群間で共通語彙を見つけることは、難しく成ります。いや、ほぼ不可能といってよいでしょう。

 もっとも、トルコ語とモンゴル語の間には、もしかするとごく少数の同系語彙があると考えることができるかもしれません(下図のkol とgar, gala など)。その他には、しばしば朝鮮語の mul (水)と日本語の mizu (水)が共通しているのではないかいうことが言われる程度ではないでしょうか? また朝鮮語の ip(口)は、日本語の kuti には対応していないとはいえ、動詞の「いふ」(云う)に対応しているのではないかという説があるようですが、この正否を判断する材料がありません。共通語彙数が少ない場合、ある時点での「借用」を疑うこともできます。このような状況から共通の祖語を想定することは、一つの仮説としてはありうるかもしれませんが、確実なものとして想定することは不可能でしょう。いずれにせよ、東アジアにおける言語の時間的深度(time depth)は、欧州のそれ(数千年)よりももっと長く、はるかに深いことが確かなように思われます。

 

 さて、「トランスユーラシア語」仮説は、アムール地方→西遼河地域からの農耕、人々(集団)と言語の拡散とを統一的に説明しようとする仮説であり、実際に農耕の展開した朝鮮や日本の地域については詳しく検討していますが、それにとどまらず、北方と西方に展開したモンゴル系、トルコ系の集団の歴史をも説明しようとする仮説のはずです。しかし、言語的にはこれらの集団はツングース系の言語と同じく膠着語の話者ですが、産業的には農業ではなく遊牧牧畜を特徴とする人々のはずです。これはいったいどうなっているのでしょうか? しかし、この点は措くことにします。

 西遼河地域から東方、つまり朝鮮半島と日本列島への農耕の拡散と人口の移住については、どうでしょうか? これについても、首尾一貫した説明はかならずしもなされていないように思われます。

 第一に、確かに西遼河地域から7000年前から東方のアムール河流域に向けて雑穀農業が広がったことは否めないのでしょう。また6500年以降に南東方向は朝鮮半島に向かって雑穀農業の拡散があったこともおそらく否定できないでしょう。ところが、論文は、それとは別に3500年前頃から、黄河流域ー山東半島ー西遼河流域に広まっていた米作地域から朝鮮半島への米作農業の拡散があり、さらに2900年頃から日本列島にむけて米作農業の拡散がはじまったとしています(下図参照)。

 しばしば指摘されているように、朝鮮半島には、日本列島ほどの水田稲作適地はなく、そのため雑穀農業がながらく主流であったと考えられているようですが、ともかく、そのため稲作は主に日本列島で急速に広まったと考えてよいようです。

 しかし、ここで問題は、日本列島に移住した人々の原郷が主に現中国北部の黄河流域や山東半島の集団であり、またそこから西遼河流域に移動した人々らしいことです。それは、MT-hgやY-hg 、さらにはゲノム本体の分析からも確からしいことが分かっています。EDARV307Aの変異(直毛など)、またアルコールに弱い遺伝子が日本列島に持ち込まれていることからも、これは容易に推測されます。そして、もしそうならば、言語から言うと、孤立語の漢語を話す集団が朝鮮半島を経由して日本列島に流入したことになります。しかし、日本語が弥生時代に縄文語から漢語(または漢語のような言語)に変わったという証拠はありません。なるほど、移住集団が朝鮮半島に滞在しているときに当時朝鮮半島で話されている言語(したがって現在の朝鮮語の母語ともいうべき言語)を話すようになっていたという可能性もないわけでありませんが、その場合には、朝鮮語と日本語の距離はもっと近くてよいはずだと考えてしまいます(つまり、もっと多くの共通語彙があってしかるべき、と)。

 結局、決定的な結論は出せませんが、1万6千年以上にわたって日本列島で話されてきた言語=縄文語が弥生時代にはいっても長らえてきたと考えるのが、様々な状況をもっともよく説明する仮説ではないか、と考えるしだいです。3000年ほど前から、大陸から人々が移住してきたから、言語もまったく新しくなったはずというわけではない、はずです。ただし、言語は縄文語が維持されたとしても、弥生時代に移住してきた人々が現郷から持ってきた神話や習慣は別です。それは言語は縄文語に変わっても、縄文文化に新しい内容をつけ加えることになったはずです。同じようなことは現在でも、アメリカ大陸の地で繰り返されてきました。