『上宮記』逸文の継体系譜は信頼できるか? | 書と歴史のページ プラス地誌

書と歴史のページ プラス地誌

私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 卜部兼方の書いた『釈日本紀』の中に『上宮記』なるものが登場する。といっても、継体(をほど)の系譜を記したものが掲載されているものなので、「上宮記逸文」とでもいうべきものである。この逸文が注目されているのは、応神から継体に到る系譜が示されていること、また垂仁(いくめいりひこ)から継体の母(振媛)までの7代の系譜が記されていることによる。

 継体が特別な注意をひくのは、奈良盆地の出身ではなく、近江国・越前国に基盤を持つ勢力の出身であること、それに加えて、記・紀には「応神5世孫」と書かれているだけで、応神から継体に到る詳しい系譜(継体の祖先名)が欠けているためである。そのため、これまでしばしば、継体は実際には応神の子孫ではないのではないか、つまり大王家の血筋は武烈から継体の間で途絶えているのではないかと疑われてきた。この場合、「万世一系」は語ることができなくなる。

 もしこのことを戦前・戦中に口に出したら、不敬罪で罰せられることになったかもしれないが、戦後の民主主義の中で、語ることが可能となったことは大きい変化である。ただし、「万世一系」、つまり男系による系譜の連続性については、(その実在を前提とするとして)まず神武から崇神までのところで途切れていることが公然の事実である。また、神功・応神の前後でも、途切れているのではないかという疑いがある。前者の場合、神武から崇神にいたるまで大王と次の大王を親と子としているだけであり、こうした前後して即位した者を親子に見立てることは、世界中で行われてきた。後者の場合、神功皇后が筑紫で産んだ応神がなぜかそこから大和にいた勢力に向かって侵攻している。つまり、筑紫にいた応神が大和にいた勢力を制しているのである。

 それに加え、そもそも確実に伝承に依拠していた4世紀以前の出来事についても、また漢字で文章が綴られるようになった5世紀以降の出来事についても、まだしばらくは、記・紀の記載内容が信頼できるものになっているとは到底思えない。あまりはっきりしない・曖昧な内容の史料をすっきりしたものにしはじめたのは、速くて継体の子・欽明の時代から、遅ければ推古の時代からであろう、と推測されるからである。「万世一系」がこの頃すでに王朝国家のイデオロギーとなっていたかどうかははっきりしないが、より古い時期の倭国連合の状態から、筑紫君磐井の「反乱」を軍事的に制圧した継体・欽明以降のことだということは明かであろう。しかし、それが明確な歴史編纂作業のための理念となったのは、7世紀末(天武の頃)かもしれない。

 さて、上宮記逸文には、継体の祖先(とその配偶者)の名前が記されており、記・紀の欠落部分を補っている。

 そこで、問題となるのは、逸文の内容、とりわけこの記・紀に欠落しており、逸文に記述されている部分がどれほど信頼できるものなのかという評価にかかわっている。

 私が知る限りでは、歴史家の意見は、逸文が応神~継体の系譜として、信頼できるという意見と信頼できないという意見に完全に分かれているようである。

 このうち信頼できるという意見は、『上宮記』が推古朝に成立した文書であることを前提とした上で、その系譜に現れる名前が記・紀に現れている(限りの)名前と一致していることに尽きるようである。

 しかし、現在まで伝わっているのは、釈日本紀の中の短い逸文にすぎず、それが推古朝の成立であることは、どのように立証されるのであろうか? 少なくとも私には、よく分からない。またそこに記載されている人名にも疑わしい点がないわけでは決してない。一つは、応神(誉田、ほむた)に対応する名前が<ホムツワケ>となっている点である。<ツ>音を示す都を<タ>と訓むべきという意見もあるが、他の人名を見るとやはり<ツ>と訓ませるように見える。<ホムツワケ>という名前からピンとくるのは、応神よりむしろ垂仁の子であろう。たしかに日本書紀でも<ホムタ>と並んで<ホムツワケ>を応神の名前としている箇所もある。しかし、それが主に出てくるのは、主に若狭の<イサザワケ>との氏名交換の箇所であるところが注目され、しかも、垂仁というと、自分の70余人の子をワケとして各地に封じたという条である。実際には、かつての倭国は、多くのクニグニに分かれており、それを象徴的に表したのが、上記の伝承であろう。近江や越の豪族が<~ワケ>だった蓋然性は高い。

 その上、かりにホムツワケが応神だったとしても、その子(ワカノケフタマタ)の次から継体の父(ウシ)の間の2代については、傍証するものがない。したがって疑えば疑うしかなく、信じれば信じるしかないという状態になっているのである。

 このことは、継体の母とされる振媛の系譜についても言うことができる。垂仁とその子・孫の代については、ともかくとして、その後の4代または5代については、傍証のない状態となっている。(年代論的には、一代の年数が25年~30年ほどとなっており、ほぼ常識の線内に収まっているが、これが上宮記の内容の正しさを保証するものでないことは、はっきりしている。)

 

 つまるところ、継体が「応神の5世孫」という伝承を肯定する確実な証拠もなければ、確実に否定する証拠もない、という結論あたりで、私も満足しなければならないようである。そこから先は、史実といううより、個々人のマインドの問題かもしれない。

 とはいえ、一つのことは明かであるように見る。それは、継体が日本列島でその後も続く王統の確実な始祖だったということである。繰り返しになるが、それはまた、倭国がクニグニの連合体から一つの統一王権の下に組み入れられた出発点をなしていた。そして、それは7世紀における律令国家の形成にまで繋がって行く。ところが、まさにこの時から、王権をめぐる「血で血を洗うような」事件が頻発するのである。安閑・宣化が継体と同時に死んだ疑いのあることははっきりしないのでおいておこう。しかし、次期後継者をねらうことから生じた事件が次から次へと生じたことは、日本書紀を読んだ人なら誰でも知っていることであろう。ざっとあげると主なものでも、物部氏への襲撃、彦人の暗殺、山背勢力の絶滅、崇峻の暗殺、乙巳のクーデタ(蘇我本宗家とその支持勢力の滅亡)、壬申の乱(古代最大の内戦)などがある。飛鳥時代も、後の武家の時代と同じように、<武>による殺伐とした時代だったように見える。