3b
前に触れたことであるが、一つの純粋な「人種」(race)という概念は成立しない。かりに今から6万年前に「出アフリカ」を果たし、世界中に散らばって行く元となった人々の集団が均一の遺伝的性質をもっていたとしても、その後の移動と分岐の過程で、DNAの様々な変異が生じたことは、今日の遺伝学のABCであり、常識であるが、それと同時に、いったん分岐した集団が相互に交雑し、雑種化したこともまた常識となっている。それに加えて様々な文化が「借用」(borrowing)を通じて影響を与え合っている。しかも、その過程は現在でも進行中である。
とはいえ、そのような変化は、常に急激に生じているわけでもない。したがってかなり長期にわたって一つの民族について語ることができることもまた言うまでもない。今書いているアイヌ民族についてもそうであり、そのように自称する民族がかつて東北地方から北海道、樺太、千島に居住していたことは疑うべくもない。変化・変容・交雑があるからといって、奈良朝から平安朝にかけて「蝦夷」(エミシ)と呼ばれた人間集団がアイヌの祖先であることを否定する必要もない。
この点できわめた興味深いのは、1972年に刊行された『シンポジウム アイヌ その起源と文化形成』(北海道大学図書刊行会)である。この本は、その前年に行われたたシンポジウム(の議論)をまとめたものであり、旧石器時代から現代にいたるまでのアイヌにかかわると思われる事象についての当時までに明らかにされた事実にもとづいてなされた諸分野(言語、歴史、考古学など)の報告を含んでいる。50年ほど以前のものであるが、おそらく今でも基本的な事実は通用するであろうと思われる。
その中でも最も私の興味を引いたのはつぎの事柄である。それは、旧石器時代後期が終わり、中石器時代から新石器時代(つまり本州では縄文時代に入った頃)から、どうやら今日のアイヌにつながる「プロト(原)アイヌ」の集団が北海道に居住していたらしいことである。しかも、北海道の中には、道央・道東の道東伝統的縄文文化(オンコロマナイ文化)と道南の東日本伝統縄文文化(東北本州文化)の2つの異なった文化集団が認められるという。このうち、後者は本州倭人(当時は日本国が存在しないので表現に困るが、漢人から見た「倭人」またはアイヌから見た「和人」を使う)とかなりの程度に接触していた集団であったのに対して、前者はそのような接触がほとんど(あまり?)なかった集団だったという。とはいえ、両集団は、一つのまとまりの中にあった若干相違する二つの集団であり、その関係は、例えば近代までの日本で西日本と東日本が多くの点で相違しながらも、一つの共通した性質を持つ人間集団でもあるというのと似ているといってよいようである。ちなみに、近代以前の西日本と東日本では、婚姻や就職もそれぞれの領域内で行われることが多かったというが、まったく没交渉というわけではなかったことも言うまでもない。おそくら北海道の2集団間でも同様だったのだろうと推測する。
さて、これも前に述べたことに関連するが、西暦3、4世紀または5世紀以降、地球寒冷化の影響下で、オホーツク文化の南下が生じた頃、道央・道東の集団(江別・後北文化人)も道南に向かって移動し、また本州東北部に向かって南下の動きをする。ここで上記のシンポジウムでも強調されていることを紹介すると、東北に南下したのは、同じ後北CⅡ式土器を持つ人々であったことである。この文化の土器は道東・道北から道南にかけて発掘されており、その同じ文化の土器が東北でも発見されていることが注目される。このことが意味するのは、先に示した道南だけでなく、それより東・北のオンコロナイ文化の集団を含む北海道の集団全体が移動したとみられることである。(下図参照)
ところが、一方の倭人の側では、その後、7、8世紀頃になると東北地方に進出し、そこに居住していた蝦夷(エミシ)に対して支配しようとする動きが活発化する。この動きは軍事的なものを含みつつ、彼らの同化(訓服・統治)をも行おうとするものであった。こうして東北の蝦夷は北緯40度線以北に退き、あるいは北海道に撤退するが、まさにこの時以降にいわゆる北海道の擦文文化が始まるのである。この擦文文化の時代は、蝦夷・アイヌ集団にとっては、南からの倭人、そして北(樺太)からのオホーツク文化人(おそらくニヴフ)とのフリクションと交雑の時期であったであろう。このような複雑な過程を経ながらも、いくぶん不思議なことに、古い時代に見られた道南vs道央・道東の相違が擦文文化期にふたたび見られるようになったという。
『諏訪大明神絵詞』は、1350年前後に成立したとみられる文書であるが、この頃までには擦文文化期は終わっており、ここではじめて「アイヌ」という言葉が登場する。金田一氏が指摘するように、蝦夷とアイヌが示す集団は本質的に同一であり、ここに蝦夷とアイヌが同じ体を示す異なる言葉であることは容易に見て取ることができる。
さて、このシンポジウムの議論でもう一つ注目されるのは、アイヌ語の方言分布地図である(下図)。この図は、樺太と北海道のアイヌ語について、語彙の面から見て、相互関係の遠近を示している。説明によれば、作図方法は、まず比較言語学でよく知られいているスワデッシュの基礎語彙200語について、各2方言間で共通語彙の割合の高いものを順に(一番目、二番目、三番目の順に)結びつけることによるものである。この図が示すように樺太アイヌ語方言(14-19)は相互に近い関係にあることがわかるが、それより注目されるのは、北海道のアイヌ語方言が大きく道南方言(1-6)と道北・道東方言(7-13)とに二分割されることである。すなわち、上で示したように、北海道集団の1万年以上前からの区分(文化、形質など)が近現代においても見られることである。シンポジウムの参加自身を驚かせたように、北海道の人間集団の2分は決してごく最近の出来事ではなく、かなり古くから見られる現象だったわけである。もちろん、ここでも断って置かなければならないのは、道南と道北・道東の集団間の関係が相対的に疎遠であったとしても、まったく交通がなかったわけではなかったことである。しかし、生態系や地理的な位置といった事情のために、道南の集団がかなり古くから本州の集団と接触・交流をもち、相互に影響を与え合ってきたことが推測される。
*図表はすべて、『シンポジウム アイヌ その起源と文化形成』による
さて、政治的統合の問題であるが、まず結論的に言えば、アイヌにあっては、その全域はもちろん、樺太、上記の北海道の二つの領域のそれぞれにおいても、国家形成は行われなかったようである。
もちろん、倭・倭人にあっても、国家と言えるようなものが登場してくるのは、水田稲作をはじめとする農業の成長によって人口が著しく増加した弥生後期のことであり、おそらく本州・四国・九州全域で人口が10万人を超えてからのことであろう。漢書によれば、倭には100あまりの国があり、3世紀の頃には30ヶ国が使訳を通じていたというから、国といっても一国の大きさは、律令国家の一郡~数郡ほどの広さであり、人口も千人~一万人ほどのオーダーのものであっただろう。3世紀の卑弥呼の時代でも、統一国家はなく、国家連合的なものがあったにすぎないとみられている。
北海道の広い領域に人口が分散しており、小規模なコタンが基本的な居住単位であった時代には、全体を統括するような国家が形成されたとも思えない。たしかに国家形成の端緒といえるものは当然ながらあったといえるだろう。しかし、そうだとしても、そのような萌芽は、とりわけ13、14世紀以降の倭人(和人)による支配の拡大によって潰されてしまったとみられる。
様々な口伝・伝承、あるいは日本人やロシア人による民族誌を読むかぎり、コタンやいくつかのコタンを含む小領域では、それらの上に立つリーダーまたは首長(長者、酋長などと訳される”nispa" がいたことは確かである。それらのリーダーは、柵をめぐらしたチャシ(cas)に住み、大きい家(poro cise)に住んでいた。また家長(エカシ、ekasi)たちが集会を開き、なんらかの決め事をしていたことも確からしい。チャランケ(caranke)はしばしば「裁判」とも訳され、「談判」とも訳されるが、何らかの問題・事件に対処するために話合いをしていたと推測される。
ロシア人が南樺太アイヌについて書いている20世紀初頭の民族誌では、ポロナイ河口に近いコタンケシ(子丹岸)のニシパが北部のコタンを統括し、亜庭湾のトブチ(遠淵)のニシパが亜庭湾のコタンを統括し、間宮海峡に面したナヨロ(名寄)のニシパが樺太アイヌ全体を統括していたことが記されている。しかし、これらのリーダー的な存在は、制度的に何らかの絶対的な権限を有意していたというわけではなく、むしろその高い人格性によって影響力を行使していたと思われる。それより前、松前武四郎が樺太を探検したときには、東岸の別のコタンのある人物がその人格によって人々の尊崇を受けていたことが記されているが、この場合もそうであったようである。これらのリーダー的な存在は、長老たち(エカシ)の会議の決定にしたがって行動しており、それを無視して権力を行使することはなかった。ただし、ロシアの民族誌は、軍事行動を指揮する場合には、リーダー(ニシパ、酋長)の命令が絶対的なものとなることを指摘している。
こうした状態は、いわば国家形成前の人々の半アナーキーな状態を意味しており、その意味で自由な社会であったことを意味している。それはヴェブレンの言う live and let live (相互不干渉)の原理(discipline)を意味している。これに対して、国家とは、(近代以前の国家に限定するが)主権者(国王など)の命令に従うこと(従属)を意味しており、ヴェーバーが述べるところの「人格的支配」に他ならない。人格的支配とは、支配される側=命令に従う側から見れば、一種の「従属」(subordination)であり、どのように見繕っても隷従の一種である。したがって国家が形成される時代には、それを如何に合理化するのか、諸家がこぞってその理論化に努めたことは、古今東西どこでも例外なく行われたところである。そして、近代になって西欧諸国で、その見直しが行われるようになったが(市民社会の啓蒙哲学)、それがどこでも例外なく徹底的に行われたわけではないことは、歴史の示すところである。もちろん、その代表は帝政ドイツであるが、あるいは明治日本のように、記・紀(古事記や日本書紀)の「天孫神話」が1000年以上の時を経て、再度利用されたことさえある。
アイヌの政治的統合からは若干離れれるが、まったく無関係でもないので、ここで記・紀とアイヌの口承文学について一言触れておきたい。
今でも記・紀が何らかの歴史的事実を反映しているのではないかと言う人が多い。しかし、記・紀が描いている事柄は、何らかの文字史料にもとづいていると想定されるが、その文字史料が日本で記録されはじめるのは、たかだか5世紀以降のことであり、それ以前の記録はほとんどなかったはずである。
このように言うと、必ずといってよいほどに返ってくる反論は、無文字社会の口伝・口承のことである。そして、無文字社会でも口伝により、かなり昔の出来事が語られていると主張される。安本美典氏の統計学的研究も、そのような想定に依拠しているようである。
もしかするとそうかもしれない。アイヌの口伝の収集に捧げた金田一京助氏も無文字社会がわれわれが考える以上に出来事を記憶し、伝えていると述べている。しかし、同時に彼は、伝えられている記憶が正確かどうかは定かではないと言い、またデート(date、日付)についてはまったく懐疑的である。また金田一氏も同意すると思うが、それに加えて、私は、国家形成前の口伝は、一つの「長編小説」(novel)のようにまとまっているわけではなく、むしろ相互にバラバラの短編小説の集合体のようなものとなっていること指摘したい。アイヌの場合であれば、動物や植物の多くの「自伝」もあれば、アイヌラックル(オキクルミ)の決して一つにまとまっていない自伝もあれば、和人の話もあり、要するに様々なジャンルの様々な口伝がバラバラに存在している。また日本の羽衣伝説のようなものもあれば、自身のことについての回顧もあれば、沙流川の丘に降臨したアイヌの祖先の話もある、といった具合である。
おそらく記・紀が編纂される前の日本列島でも同様であったと思われる。その痕跡は、記・紀、特に日本書紀の随処に残されている。要するに、元はバラバラ、別々のものであった短編小説を、ある思想(例えば万世一系)にもとづいてひとつのシナリオにまとめたことがバレバレであり、そこで特にその繋ぎ目あたりにほころびが見えるのである。抽象的に言ってもわかりずらいかも知れないので、天孫降臨談を取りあげると、出雲の大国主の国譲りの後、いよいよ天孫が降臨する件を取りあげよう。それまで出雲が、あるいは大和(奈良盆地の三輪山あたり)が焦点となっていたので、天孫降臨の地はそのあたりと思っていると、あに図らんやなぜか北九州あたりに降臨する。日向とはあるが、「ここは加羅国に向かい・・・」というので、北部九州であろう。と、思うも、いつの間にか、その地は日向国(宮崎県?)の高千穂の峯となっている。と思うまもなく、天孫は鹿児島の阿多の地の女性と結婚する。この展開には、わが本居宣長先生も大いに戸惑った様子です。しかし、そもそもバラバラの短編を壮大な物語にするために繋ぎ合わせたのだから、後の世の人が合理的に解釈しようとしても、無理なのである。このような無理、ほころびは、いわゆる神武東征談になるともっとはっきりしてくるが、それは措いておこう。
さて、本題に戻すと、アイヌの口伝は、全部集めれば、記・紀なども比べものにならないほどの膨大な分量を誇るほどになるが、幸か不幸か、8世紀の律令国家のように明確な国家的意図をもってバラバラの短編を長大な物語に編集しようとする権力はついに現れなかったということであろう。こんなことはあまりにも自明な事なので、誰も言及しないが、誰も述べる人がいないので、あえて述べたしだいである。
想像をたくましくすると、コシャマインの乱(1457年)やシャクシャインの乱(1669年)に際して、軍事的指揮者となった人々はかなり広域的に動員できたと思われるので、もし乱が成功していたら、一種の王権のようなものが成立した可能性を考え見るが、そのような if-history を夢想しても、意味がないことは言うまでもないだろう。