アイヌの伝統的な婚姻と家族  E・トッド氏の核家族説は妥当か? | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 先にも紹介したように、E・トッド氏は、近代のイングランド人、またはもう少し広くイギリス人にあっては、遺産相続の不平等鵜を特徴とする絶対的核家族が通常の家族形態であること(つまり、単に部分現象として見られるのではなく、通則であること)を示し、その要因として、この地域の人間集団が農業を始めた時期がかなり遅いことを挙げている。彼はまた、現生人類の初発の家族形態が「未分化の」核家族であったことを示そうと試み、現在まで西欧にとどまらず、主要文化地域の周辺部に(未分化)家族が残っていることを例示している。その事例は、東アジアでは東南アジアの一部(タイ族など)、そして北海道のアイヌにみられるという。

 

 彼がアイヌの核家族説を紹介するに至った経緯はよくわからないが、はたしてこの核家族説は本当なのであろうか? 乏しい知識ながら、前に調べたことのある文献をひっくり返しながら、考えてみた。ついでに、近年、遺伝子解析にもとづいて縄文人の祖先集団の一部とみられている(斎藤成也、篠田謙一、太田博樹、他)アイヌ集団の婚姻慣行についても触れながら、考えてみた。

 

 アイヌの婚姻については、『日本の家族と北方文化』(第一書房)の「北東アジアにおける日本の家族」の中で、大林太良氏が興味深いことに触れている。それはちょっと変わったアイヌの親族組織のことであり、この論文によれば、アイヌの親族組織は、父系制でも母系制でもなく、「男女別系」とも言うべきものであり、男は男の血筋をひき、女は女の血筋を引くというものである。この血筋は、女性の場合には、ウプソル(またはウプショル、upsor, upshor)という下紐が母から娘に引き継がれることによって示され、一方、男性の場合には、イトクバ(またはイトッパ、itokpa)と呼ばれる「祖印」によってあらわされるという。祖印は、例えば酒を飲む時に用いるイクパシュイ(ik-pasui、文字通りには飲む箸)に刻まれるという。そして重要なことは、これらのウプソルやイクトパは単なるモノや印ではなく、婚姻規制とかかわっていたとされる。それを簡単に定式化すれば、男性は自分の母親と同じ模様のウプソルを持つ女性(シネウプソル)とは結婚できないということになる。また女性は、自分の父親と同じ祖印イトクパを持つ男性(シネイトクパ)とは結婚できないということになろう。シネ(sine)は、アイヌ語では、「一」の意味であり、ここでは同じ下紐や祖印を持つ者を意味する。さらに、大林氏は、シネイトクパの男性たちが川筋に集落(コタン、kotan)を形成して居住していることを示す図を掲げている。

 

 さて、以上が大林氏の説明である。この婚姻規制を厳密に解釈すれば、あるいは厳格に順守すれば、コタンは、初発において、かりにシネウプソル集団であったとしても、その男性メンバーは、上記の婚姻規則を守るために外部から自分の母とは異なったウプソルを持つ妻を得なければならず(コタン外婚)、したがってコタンは、時間の経過とともに、複数のウプソルを持つ女性を持つことになり、シネウプソル集団であることをやめることになる。これは論理的必然であり、その結果、コタン内部での内婚が可能となるであろう。だが、シネイトクパ集団としての性格は持続することになる。

 

 しかし、例えばジョン・バチェラーの『アイヌの暮らしと伝承』を見ても、あるいは瀬川清子『アイヌの婚姻』を見ても、こうした婚姻規則は一種の「理想形」とも呼ぶべきものであり、現実には、決して順守されることなく、しばしば破られていたようである。婚姻規則の通則は、例えば次のような場合に破られた。

 1、一人または複数の娘しかおらず、息子のいない家族の場合、その娘または娘たちは、しばしば婿を迎え、親の家(cise)のすぐ近くに小さい家を構えるといったことが生じたが、この場合、その家系には婿とともに別のイトクパが持ち込まれることになる。この場合、婿は嫁の父親のイトクパに変えることもあり、またそれを欲しない場合でも、彼らの息子(妻の父から見ると孫)にその家(祖父)のイトクパが伝えられるといったことが生じた。つまり厳密に言えば、イトクパは、都合に合わせて変えられており、(第三者の客観的な目から見れば)厳密な意味でのシネイトクパ集団はすでに存在しないと言えなくもない。

 2、またアイヌの間では、婚姻の自由がかなり認められており、婚姻にあたっては結婚する二人の意思がかなり認められている。この点では、父親の父系制的な権威はきわめて脆弱であるということができる。

 一つには、そのために、上記の婚姻規則に反するような恋愛が生じ、婚姻に帰結することがしばしば生じたという。例えば青年が自分の母親と同じウプソルを持つ娘、例えば母方のイトコと結婚するような場合である。このような場合、娘は自分のウプソルを隠す、別のウプソルを持つ人から譲りうける、あるいはそのような人の娘であることを演じる、等々といったことである。実際に、イトコとイトコの結婚が実際にはかなり頻繁に行われていたことは、バチェラーも認めている点である。

 

 婚姻規則の不順守には他の事情もあるが、ここではそれが理念的に人々の行動に影響を与えながらも、事実上はかなり頻繁に破られていたことを示すにとどめる。要するに、婚姻規則は、若者の自由な婚姻(結婚相手の選択)を厳しく制限するほどには厳しくなく、その結果、強い「家父長制的」権威は感じられないように見える。そのような規則に対する精神的な影響が感じられるとともに、それは破られるために存在するかのような印象さえある。瀬川清子氏のあげている多くの事例は、まさにそのような印象を与える資料集である。

 若者の家父長制的権威からの自由はまた、結婚する若い夫婦がどちらかの親の家の近くであるとはいえ、独立の小さい家(チセ)を建てて住むことが多かった点にも認められるように見える。E・トッド氏が(未分化の)核家族がアイヌのもとにみられたというのは、おそらくこのような事実を指しているものとみられる。この点、特に父系制的な外婚的氏族(リネージ)が広く成立していた北東アジア諸地域とは著しく異なり、そのような発展がアイヌ社会に見られなかったことは特筆するべき事実であろう。

 

 とはいえ、これをもって核家族の証拠と言えるのかは、大きい疑問点といわなければならない。もし独立の小さい家(pon cise)を一つの家族と断定できるならば、核家族はアイヌ社会の主要な家族類型であったということはできるかもしれない。しかし、実際には「家族」というべきものはこの小さい家とその親たちの家の集合体にあったようにも見えるからである。事実、親子二世代(既婚者世代)の同居もまた頻繁に行われていたのである。

 私ははっきりと断定できるだけの知識を持ってはいないが、東南アジアでも、同様な類推を可能とするような事例が見られたようにも見える。そこでは、一つの屋敷地に2~3の家からなる屋敷地共住集団が成立しており、その一つ一つの家は核家族的であるとしても、全体としての共住集団が何らかの機能を果たすより大きい親族集団であったように見える。総じて「相互不可侵」は人間の一つの重要な志向かもしれないが、それと同時に様々な局面における生活上の様々な必要が人々の協働を必要とすることもまた事実である。トッド氏自身が認めているように、あのエリザベス期のイングランドでさえ、絶対的核家族の成立は、高齢者の生活を可能とするような社会保障制度の成立と歩調を合わせていたのである。ましてや、伝統的社会においては言うまでもないであろう。