シュルツェ・ゲーヴァニッツ『イギリス帝国主義とイングランド自由貿易』 その1 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 パソコンが不調で、図表の多いページを読み込んでくれないので、完全に文字だけの記事にします。

 ということで、トッド氏の家族史研究に対する紹介・疑念は後回しにして、しばらく別の主題に転じます。

 

 現在の研究者には、あまり流行らないかもしれませんが(というよりも課題が大きすぎるために、短期間で、例えば毎年着実にこじんまりとした主題の学術論文を書くことを求められている大学の教員=研究者には、もはや論じることが不可能となった主題かもしれませんが)、私が大学生・大学院生の頃から関心をいだいていたテーマについて書くことにします(というより、別の研究者の紹介ですが・・・)。

 

 そのテーマというのは、「資本主義とは何か?」とか、「近代とは何か?」とか、「なぜアングロ・サクソン系の諸国民(英語圏諸国民といってよいかもしれません)が、世界史の中でいち早く近代的とか、資本主義とか言われる社会を作り上げたのか、またそのような社会は歴史的にみてどのような特徴を持っているのか?」、あるいは「英米社会が今日の世界で圧倒的な派遣=ヘゲモニーを持ち得ているのはなぜか?」といったようなことですが、これは主題としてはあまりにも大きすぎて、このような小ブログにはふさわしくないかもしれません。

 

 さて、そもそもこのような大テーマを正面切って研究対象にした人は、古今東西広しといえどもかなり少数だったといわなければならないでしょう。今日ではかつてより大きく評価を下げてしまった感のあるマルクス(Karl Marx)も、その一人であり、「資本制的生産に先行する諸形態」や『ドイツ・イデオロギー』、『経済学批判要綱』には、そのエッセンスが描かれています。また同じドイツ人の社会学者マックス・ヴェーバーは、古今東西の諸文献を漁り、宗教社会学、社会経済史、支配の社会学の領域で知らない人はいないというほどの著名な研究者になりましたが、その研究でも上記の主題に対する解答が含まれています。

 これまで少し取り上げたトッド氏も、家族史・人口史という領域からですが、同じ主題に関する結論を含んでいます。また私が現在最も注目しているアメリカの制度派経済学の創始者、Thornstein Veblne もその一人として挙げられるように思います。

 もちろん、これらの人々の解釈や力点の置き所は、各人各様に異なりますが、期せずして(?)共通する、あるいは類似する点もないわけではありません。キータームだけあげれば、自由、個人、合理化、市場、所有、等々の用語を使って説明することができるかもしれません。ヴェブレンの場合には、これに制度、思考習慣などの用語が加わります。

 

 が、これらの人々以外にも、上記のテーマについて、興味深い論点を提示した研究者は少なくありません。その中で、今回は、Schulze=Gaevernitz というドイツ人の経済学者が書いた著書を取り上げることとします。経済学者ですが、決して狭い意味の経済についてしか見識がないという人ではなく、マックス・ヴェーバーと同じように、広く精神的または文化的事象といわれるものに深い関心を抱いており、むしろそちらの領域から経済的現実に接近するという方法論を強く感じる論者でさえあります。

 とりあえず、この人の書いた『20世紀初頭のイギリス帝国主義とイングランド自由貿易』の序論を何回かにわけて紹介することにします。この本の初版は1906年であり、序論は、「イギリス世界権力の基礎」Die Grundlagen der britischen Weltmacht と題されており、その後に本論(第1章から第3章)と「むすび」が続きます。

 言うまでもなく、現在までにイギリスは、かつての世界帝国の地位を失い、ブリテン島の内部に戻っているように見えますが、それに代わって米国(アメリカ合衆国)がかつてのイギリス覇権(帝国主義的地位)を受け継ぎ、アメリカを中心とする自由貿易体制を築いてきました。もとより、「帝国主義」(imperialism)という多分に非難めいた・自由に反するように見える用語は使われなくなり、かわって商品・資本・人の移動の自由化からなる「グローバル化」という用語に置き換わっているとはいえ、その精神的な核の部分は、多くの論者が主張しているように、同じように見えます。

 ちなみに、この点では、米国内の民主党も共和党も同じであり、ほぼ区別はないと思います。しかし、多くの日本人は誤解しているように見えますが、これに異を唱える人物が現れました。そう、ロナルド・トランプです。いかがわしい人物。これが彼に対していだかれる多くの日本人の印象ではないでしょうか。実は私もそう思います(そう思ってきましたし、今でもそう思っています)。しかし、「グローバル化」(アメリカの自由貿易=市場原理主義にもとづく覇権)がアメリカの中間層に与えた打撃のことを考えれば、多くの人々がこの「いかがわしい」人物になぜ票を投じるのか、そして Deep State なる奇妙な陰謀論にひかれてしまうのか、その理由のかなりの部分は「理解可能」でしょう(同意できるといっているわけではありません)。ただし、共和党もトランプ氏もあくまで親アングロサクソンであり、したがってそのような人々によって支持されているにすぎず、アフリカ系の人々の支持するところではありません。といってアフリカ系の人々が心の底から民主党を支持しているかと言えば、ノーといわざるを得ません。実際には、民主党はアフリカ系の人々からも多くの票を得ていますが、その得票は、反共和党・反トランプ票であり、その意味でネガティブなものです。ここには、近代がもたらしたものと、それへの反発という、かなり捻じれた状態を読み取ることができますが、その捻じれを理解するためにも、かつての「イギリス帝国主義とイングランド自由貿易」の精神構造を知ることには、意味があるでしょう。それはまたアングロサクソン系の人々がなぜ近代社会を最初に作り上げたのか、あるいは近代とは何かを理解するためにも、大いに資するところが多いと思います。とりあえず、解説なしで日本語訳を載せることにします。(誤訳、不適訳があるかもしれませんが、気づきしだい、訂正することにします。)

 Gerhalt von Schulze=Gaevernitz, Britischer Imperialismus und englischer Freihandel zu Beginn des zwanzigsten Jahrhunderts: Originalausgabe von 1906

 

『20世紀初頭のイギリス帝国主義とイングランド自由貿易』(シュルツェ=ゲーヴァニッツ)

 

序論 イギリス世界支配の土台

 

 世界史的な視点からみて、19世紀の最も重要な出来事は、アングロ・サクソン人の世界支配である。19世紀の初頭には、イングランド人2人に対してフランス人はまだ3人の割合であった。それ以来、英語を話す人々の数が5倍に増え、今日では言語上フランス人1人に対して、そしてドイツ人2人に対してイングランド人3人の割合である。英語は世界で最も広まっている言語であり、1億2千万から3千万人の人口、文化的に高度な平均の人口を数えている。人は陸地面積を超える一つのアングロ・サクソン海について語ることができ、その他の国民と文化は、一部は島として、また一部は大陸(ロシア、中国)としてそれより突出している。

 政治的には、二つのアングロ・サクソン列強(英・米)が世界の頂点に立っており、われわれは以下でそのうちイギリスの世界権力を取り扱うこととする。大英帝国は、まず政治的権力組織であり、しかも世界で最も広大な帝国である。それはそのようなものとしてイングランド海軍の海洋支配に立脚している。それは陸地面積の四分の一を、また人口のほぼ三分の一を占めている。しかし、英国の世界権力は、ロシア帝国のような政治的組織であるにとどまらない。大英帝国の政治権力は、同時に最も広い経済的基礎の上にある。たしかにイングランドは、もはや19世紀中葉のように、世界の「工場」すなわち工業国ではないが、いまだに世界の大規模な輸送業者である――世界の輸送量の50パーセント以上がイングランドのものである。イングランドはいまもなお第一級の産業国家である。大英帝国の経済的世界権力は政治的世界権力とならんで健在である。

 もし50年前に一人の教養あるドイツ人に、この素晴らしい興隆の基礎について問いをなげかけたならば、おそらく彼はイングランドにおける政治的および経済的自由、議会制度、市民的職業の評価、そして軍国主義の欠如を指摘したことだろう。マルクス主義者ならば、この質問に対して次のように答えただろう。イングランドではブルジョアジーがきわめて純粋に支配を達成しており、そこでは資本が何よりもその需要に応じて大規模な国民経済全体を形成してきたのである、と。ビスマルクの時代の世代のドイツ人ならば別様に答えたであろう。そのようなドイツ人ならば、コブデンとブライトまでの大英帝国の世界的地位が主に政治的権力手段によって守られていたことを強調するだろう。イングランドの指導的な頭脳自身も、自由貿易時代まで、それほど違う考えをしなかった。周知のように、アダム・スミスは、彼の思想にきわめて対立する航海条例をあらゆるイングランドの商業的規定のうちで最重要なものとみなしていた。

 実際には、歴史的な回顧は、ブリテンの世界支配を生み出したあの生成と生長の長い年月に対して政治的要因を前面に出すことに帰着する。イングランドは、競争相手に勝利したが、それはとりわけ、そして何よりもより強い国家を、圧倒的な軍事力を自己のものとしたためであった。

周知のように、イングランドの世界的地位は、まずオランドとの短いが決定的な争いから、ついでフランスに対するほとんど200年におよぶ戦争から生まれた。

 オランダは海上商業を持っており、イングランドは、まず自分の軍艦を建設することによって海軍を持ったが、それは軍事目的に使用されるオランダの東インド輸送船より優れていた。その他にイングランドはより優れた造船所を保有していた。それによってイングランドは、オランダの政治的および経済的な世界的地位を破り、ウイリアム三世(ウィレム三世)が同国を第二級の順応的な同盟仲間の役割へとおとしめた。それ以来、オランダ――かつて世界を政治的、経済的および精神的に支配していた国――は、歴史なき静物に衰えたのであり、最近になってはじめてドイツという後背地の台頭によって目覚めたのである。

 フランスとの争いはより困難だった。フランスは、この戦争の開始時には、経済的関係でイングランドに勝っていた。フランスはイングランドよりはるかに人口が多かった。フランスは、コルベール以来、第一の工業国であり、イングランドはそれに対して自分の側には同様のものを何も持たなかった。フランスはより高い国家収入を持っていた。植民地の領域でも、フランスはよく知られているように優越していた。北アメリカの東海岸へのイングランド人植民はフランスによって後背地から切り離されていた。カナダ、ミシシッピ渓谷、ルイジアナ、灼熱の西インド諸島は、アメリカにおけるより大きいフランス帝国の途切れなき繋がりを特徴としていた。インドでも、フランスはイングランドより早く登場しており、イングランドによるインドの獲得は、まったく本来的に――「citoyan Tippou」に対するイングランドの争いに至るまで――フランスの懸命の防衛の中で成し遂げられたのである。

 これだけではない。フランスはその才能を有しており、それに対してイングランドはただ性格を対置しなければならなかった。デュプレ(Dupleix)は、インド兵士、インドの納税者および一握りのヨーロッパ人命令者の中でインドを征服するための秘密を発見した。彼は、インドが国民ではなく、地理的な概念――文化的に分裂し、外国支配に慣れ、強者と捕食者に従属している土地――であることを知っていた。シーリー(Seeley)が明示的に認めたように、イングランド人は、デュプレの考えを後になって実現しただけである。まだアメリカ独立戦争の間には、天才的なシュフランがインド洋、つまり今日わたしたちがイングランドの固有の所有物と見る事に慣れているあの海を支配していた。しかし、フランスは、シュフラン学校の多数の海軍将校を王党派として処刑し、海軍を計画的に崩壊させたため、革命の中でその本来の艦隊を失った。たしかにカルノーは――革命的変動および頂点にある国民公会の営む全国家権力を利用しながら――陸軍を再建することができた。しかし、海軍は復興されなかった。この状態の中で、フランスにとってもう一度前代未聞の天才が出現した。

 ナポレオンの明らかに素晴らしく相互に関連する政策は、その一つの主導的な思想をとらえた時にしか、その総体と大きさとを理解することができない。ナポレオンにあってはイングランドに対する戦争がすべてを支配した。彼は、イングランドを「第二のオレロン島」に引き下げようとした。イングランドに対抗してエジプト行きの汽車が建設された。イングランドに対抗してヨーロッパ大陸が征服され、それについて彼は軽蔑的に語った。「この古いヨーロッパには飽きた。」ドイツでイングランドを打ち破るというナポレオンの思想は、ドイツ・イングランド貿易の当時の熱狂を考えれば、理解できよう。フランスによるオランダの征服以来、ハンブルク(北ドイツ)はアムステルダム(オランダ領)の世襲財産となっていた。1800年頃に、北ドイツはイングランドの最重要な商業地域であった。この商業上のイングランドの総輸出は、1792年に9%、1800年に31.5%となっており、プロイセンの中立性がそれを政治的に保証していた。ドイツの港へのイングランド商品を禁止したベルリン勅令に続いて、イェーナの会戦があった。ロシアに対する戦争の始まる時にナポレオンは書いた。「それはまったく喜劇の一幕のようなものであり、イングランド人がシナリオを変えている。」イングランドに対抗してモスクワへの汽車が整備された。ナポレオンはまたすでに早くから陸路でインドに達するという考えを抱いていた。ナポレオンはまた、インドへの突進によって海軍なしに「海の自由を獲得する」ことを望んでいたが、その際、彼は当時のイングランドにとってのインドの意味を思い違いしていたようである。

 フランスに対する波乱に満ちた争いの中でイングランドは勝利した。フランスの敗北は、ファショダによって最近定まった。それ以来、植民地政策的には、フランスはイングランドが許容するものとなっている――また事情によっては、ライバルがいないので、同盟仲間でもある――。イングランドの勝利は次の土台に基づいていたように見える。その地理的状態がイングランドにあらゆる力を海軍の一面的な建設に注ぐことを許した。海の支配は、すでにベーコンが求め、スチュアート朝以来イングランド国民が世襲財産と見なしていたものであるが、それによって事実――19世紀の最重要な政治的事実――となった。これに対してフランスは、政治家としても偉大なライプニッツの忠告に逆らって、その力を無益な陸軍に使ったのであり、この陸軍は今日おおよそ最初の国境線に戻っている。イングランドは、資金を支払って大陸の強国――オーストリア、プロイセン――を通じてその陸地戦を実施した。これらの国がフランスと争っている間に、イングランドは、世界を征服したのである。セダンではドイツのカノン砲がイングランドのために火をふき、ドイツ軍は第二帝政と一緒にエジプトにおけるフランス人の権力地位を打ち破り、それはスエズ運河の開設の際にもきわめて輝かしい見せものとなった。

 フランスに対するイングランドのこの政治的勝利は、重要な経済的結果をもたらした。この闘争の間に、イングランド人は巨大な植民地帝国を獲得し、それをはじめて独占的に搾取したのである。彼らは、ナポレオン戦争の間に一時的に海外市場全体を独占した。これに対してヨーロッパの諸国民に意思に反して課せられた大陸封鎖は、周知のように至る所で――例えばヘルゴランド(北海諸島)、シチリア、ドナウ諸公国によって――粉砕された。その上、1807年の東プロイセン出兵でも、フランス軍は大部分が禁止されていたイングランドの布を着ており、それはベルリン勅令に反してハンブルグに輸入されていた。ここにあらゆるイングランド以外の商船の破滅が加わった。ナポレオン戦争の間、イングランドは4000雙近くのヨーロッパ船をその商船に併合したという。そこでイングランドは世界商品の集積と配分のための中心地となった。当時まだわずかだった量の商業がもたらした高い利得のために、そこからイングランドの国民財産の法外な増加がもたらされた。そのためピットは、戦争の7年後1801218日に議会で次のように述べた。「この戦時を戻ってきた平時と比べると、われわれの購入額とわれわれの商業の拡張に逆説的で驚くべき像を目にする。私たちは国内商業流通と同じように対外商業流通を以前よりも高い階梯にもたらした。そして私たちは、当時国にとって与えられていた誇るべき年よりも現在の年に目を向けることができる。」

 もちろんナポレオンの政策は後にイングランドの富に深い傷を――フランスの福祉にとっても重い傷を確かに――与えた。フランスの財政はいつも新しい戦時税によって維持しなければならなかったのである。イングランドがそれらの戦争にあって紙幣に移行したとき、その相場が最悪の月日(1813)にも71以下に下がらなかったことは大きい経済力のしるしであった。この経済的躍進は、もちろん政治的な領域に強く反作用したに違いない。イングランドが「一人豊か」であった。すでにスペイン継承戦争で、とりわけ革命とナポレオン戦争で、イングランドは、その補助金によって一度ならず大陸の同盟国をしっかりと繋ぎとめていた。202384日)