私はなぜ邪馬台国(やまと国)=畿内説を支持するか? 地誌・交易・人口動態 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 これまでも書いてきたように、漢書地理志や魏志倭人伝をどのように解釈し、どのようにいじりまわしても、そこからは邪馬台国が北九州にあったのか、はたまた畿内(奈良盆地)にあったのか、結論を下すことはできない。そもそも、笵嘩や陳寿の地理的な認識、より正確には彼らの記述が誤っていたのである。つまり、彼らの認識では、女王の都した邪馬台国(これは倭国王の所在地でもあった)は、帯方、楽浪郡、韓の東南大海の中にあり、その位置は会稽郡東冶県の東の大海中にあったのであり、その有無するところ・法俗はもっと南の朱崖儋耳のものと同じとさえ捉えられていたのである。

 そのように理解されていたものを、どのように細工して自分の説に有利なように解釈してもムダであり、また「素直に読む」ことなどもムダである。「東冶」を「東治」(これはどこか?)と読んだり、ありもしない短里を用いても、比例的距離を持ち出してもムダである。そもそも笵嘩、陳寿が誤ったイメージを持っていたか、さもなければ一説が説くように故意に誤ったイメージを与えようとしていたからである。

 したがって何らかの決定的な物的証拠、例えば北九州か畿内に、あるいは別の場所に所在したことを記す史料でも出てこない限り、議論が終わることはないであろう。またしたがってどんな議論も、それが提示する別の視点、別の材料などによって、その議論がどれほどの射程距離をもって読者を説得しうるかにかかっていよう。もとよりそれは、法廷のアナロジーで言えば、物証ではなく状況証拠に過ぎないから、たんなる偶然の一致(coincidence)とみなされないためには、すなわち確率性の高い議論とみなされるためには、より説得性の高い複数の状況証拠であることを要しよう。

 

 

 さて、北九州説は、最有力な二つの説の一つであるが、私がそれに最も違和感をいだく最大の理由は、それがあまりにも狭い領域に限られているからである。また北九州説でも最も有力な説では、その領域は、おそらく東西100km以内、南北数十kmの範囲内におさまるであろう。個人的なことになるが、私はかつて5年間ほど福岡市に住んでおり、その折、福岡県・大分県・佐賀県・長崎県・熊本県の各地を車で歩き回ったことがある。古・伊都国のあったとされる糸島半島にイカを食べに夕方車を走らせたこともあり、懐かしい限りだが、私の住んでいた古・奴国の東からわずかに一時間の距離に過ぎない。また毎週のように太宰府を過ぎ、久留米の看護学校に教えに車で通っていたこともある。これも車で一時間内の距離に過ぎない。北九州説では、魏志倭人伝の語る領域はこの狭い地域にほぼおさまることになる。ちなみに、この地域の面積は、朝鮮半島の10分の1にも満たない。

 と、このように言うと、同じ九州説でも北九州ではなく、もっと南部地域を考えている人は異義を唱えるかもしれない。しかし、そもそも北九州説論者が北九州を支持するのは、当地が当時の最先進地域であり、倭と韓諸国との交易の玄関口、ハブ地域であったからというものであり、その点で畿内に勝るとしているからである。したがって同じ九州でも南九州ということになると、話がまったく違ってくるというしかない。同じ九州でも北九州と南九州では、視点が本質的な異なるというしかない。

 私が北九州説では倭国の領域をあまりに狭く捉えすぎるというとき、かならずしもただ私の実感を表現しているのではない。そもそも、魏志倭人伝には、諸国の行程を記す際に、それらの戸数を記している。そして、その戸数を合計して「倭」の総戸数と考えると、それは少なくとも西日本全体の戸数を示しているとしか考えられない。念のために、それらを列挙しておこう。

  対馬国  千余戸

  一大国  三千許の家

  末羅国  四千余戸

  伊都国  千余戸

  奴国   二万余戸

  不弥国  千余家

  投馬国  五万余戸

  邪馬台国 七万余戸可

 これらの合計は、15万余戸(家)となり、かりに一戸あたりの平均人口を5人とすると、倭の人口は75万人ほどとなる。

 この人口は、鬼頭宏氏などによる当時(西暦200年頃)の倭(北海道や琉球を除く)の総人口の推計(60万人)と概ね一致してる。偶然の一致とはとても思えないほどである。下図にその地域別分布を載せるが、北九州の総人口は、4万人ほどである。

 

 

 なお、この図では、縄文末期(9世紀頃とする)から弥生前期/中期の境(BC400年頃)、弥生中期/後期の境(0年頃)の人口(推定値)を載せているが、推定に際して使った式の説明はややこしいので省く。(ただし、弥生の水田稲作文明とともに人口増加が始まり、その波は九州から中国・四国へ、そして近畿へ、さらに若狭湾ー伊勢湾線を越えて東日本に伝わったという想定にもとづいて推定をしている。)この図が示すように、縄文末期には人口の中心は東日本にあり、西日本の人口は全体の10%ほどでしかなかった。そして人口密度から言えば東日本でも、関東が最も人口密度の高い地域であったと推定されている(根拠は、住居を中心とする縄文遺跡の数による)。

 したがって弥生時代の人口変動は次のようになる。最初、西日本は人口の過疎地であったが、稲作の進展による食料増産とともに人口増加が始まり、その波は九州から中国・四国を経て近畿に向かい、さらにはそこから琵琶湖の東・尾張平野・東山道に入り、そこから関東に向い、ついには東北にまで及ぶことになる。しかし、それとともに注目されるのは、この人口過程の期間中でも東日本は人口論的には西日本を超えており、弥生時代の終末期においても西日本とほぼ並ぶレベルにあったことである。ちなみに、その後、平安時代から以降は、東日本、特に広大な稲作可能地を有する関東平野が大規模開墾の中心地となり、それが鎌倉時代以降の武士政権の経済的基盤となったことに注意しなければならない。

 話しを弥生時代の終末期、つまり邪馬台国の時代の倭に戻すと、近畿(畿内とその周辺)は西日本における最大の人口集積地であり、かりに山陽地域と一緒にするならば、西日本の半分以上がそこに集中していたことは明かである。その上、その東側には、さらにより多くの人口をかかえる地域がひかえていた。かりに邪馬台国が奈良盆地にあったとするならば、この邪馬台国と「不和」であった狗奴国はしばしば尾張平野 and/or それ以東における勢力とされるが、そこには巨大な人口が存在していたのである。

 このことからも明らかなように、魏志倭人伝の戸数記事は、北九州説にとっては致命的な反証となる。したがってこの説に立つ人々がそれを否定しようとすることは当然と言えば当然である。例えば北九州市の出身で作家の故・松本清張氏は、北九州説に立つ代表的な人だったが、それが北九州説にとっては致命的な反証となることをよく理解していたのであろう。彼は、魏志倭人伝の戸数記事などは信頼に足る史料(倭の側から提示された何らかの信頼に足る情報、何らかの戸数調査)によるものではまったくなく、中国の史官による造作、戸数いじりの過大な修辞!!!に過ぎないと断じていた。もっとも、戸数が記載されているのは倭だけでなく、朝鮮半島の他の諸国も含まれるのだから、魏志倭人伝の戸数記事全体が信頼できない過大な修辞ということになるのだろうが、清張氏はそこまでは断じていない。しかし、それも一つの見方であることまでは否定しえないかもしれないとしても、それが単なる修辞(過大表現)であるという証拠も存在しない。すでにこの時代には、倭の諸国(少なくとも中国と交流のあった30ヶ国)については、「国」がいて世々代々の「王」がおり(支配が行われており)、また少なくとも邪馬台国については租税をおさめるための施設もあったのであるから、何らかの徴税用の戸数調査がすでに行われていたとしても不思議ではない。

 

 私がそれ以上に考えあぐねていたのは、北九州説でもそうであり、「倭」をもっと広く捉える近畿説の場合には、もっとそうだが、列島の相当部分を政治的に結びつける「力」とはどのようなものだったのか、という点にあった。

 一つの考えが軍事力にあることは言うまでもないかもしれない。実際、もっと後の時代になると、例えば鎌倉時代を開いた源頼朝を頂点とする幕府権力の場合、その背後には軍事力があることは言うまでもない。彼が伊豆で旗揚げしてから平家軍に勝利し、鎌倉に幕府を開くまではいうまでもなく、その後の鎌倉政権にとっても軍事が本質的な要素であったことは言うまでもない。何千人または何万人という職業的戦士階層がおり、彼らが土地(または土地からの地代)に対する利益を求めて軍事行動に参加したことは語るまでもない。木曽義仲も今の長野県から新潟県上越市を通り、富山、福井を経て京都にまで兵を進めている。

 しかし、弥生時代の末期、そのような職業的戦士階層が大挙して長距離を移動したという証拠はどうやらないようである。馬もなく、数十人(?)それとも数百人の戦士が九州から近畿に押し寄せたといったことも、反対に近畿から北九州に押し寄せたという形跡もないようである。

 しかし、必ずしも軍事力に頼らなくても、国家的な統合の力を説明できることは、すでに他の地域でも証明されていることである。その力とは地域間を結びつける交易のネットワークである。

 子供でも知っていることだが、交易は give and take の相互的な関係、利害にもとづく関係である。自分が欲っするものを得るためには、相手が欲するものを与えなければならない。このことは交易にとどまらず、例えば封建的な主従関係にもあてはまり、主人は家臣の軍事的援助を得たいが、そのためには家臣に利益(地代をもたらす土地)を与えなければならない。家臣の側も土地(からの地代)を得るためには、主人に奉仕する(特に軍事奉仕する)ことを求められる。ただ封建的主従関係の場合には、その関係は人格的(personal)であり、主人・家臣という上限関係が付随する。

 古代の交易がこうした人格性をどの程度に引きづっていたかはあまりよく知られていないが、かりに人格性がものを言ったとしても、それよりも大きい役割を果たしたのは、相手の欲するモノにあったであろう。東日本の縄文時代にあっては、その一つは翡翠(硬玉、ひすい)にあった。糸魚川市で採取された翡翠(原石、加工品)は、縄文時代の様々な場所で発掘されているが、それは当時の交易路にのって東日本の到るところ、北海道にまで運ばれている。この翡翠に対する対価が何であったのか、ものの本にはあまり詳しく書かれていないが、もちろん、気前よく無償で与えられたわけでなく、何らかの対価と交換に与えられたに違いない。

 そして、注目されることに、弥生時代のある時期になると、翡翠(原石、加工された玉)は突然西日本に向かう。さらにそれらは日本海を超えて朝鮮半島に渡ったようである。

 では、それと交換に「倭人」の側が得たものとは何だったのだろうか? 端的に言えば、それは鉄であり、鉄素材であった。鉄は、弥生時代に始まった稲作という産業技術には不可欠のものであり、かりに石がその代替物として使われていたとしても、石に比べてはるかに軽量で強く効率的な諸用具(稲作用具、土木工事用具など)の素材であった。そして、あわてて付け加えると、その鉄素材を得るための対価物は、もちろん、翡翠に限られたわけでは決していない。 

 したがって上で述べたような多数の人口を擁する地域の人々が、またそれらの地域で首長的、王的な存在になりつつあった人々にとっても、きわめて重要な素材としての鉄を得たいと思ったことは、明らかである。

 そして、これらの人々がそのためになしうることは、どの地域であれ、一つであった。すなわち、港を開き、船に乗って航海する者=交易者を呼び寄せる(または育てる)ことであり、その上で、鉄素材を得るための対価物を調達することであり、調達した鉄素材を加工して諸用具を製造する工人を養成することなどが、それである。各地域の首長、王がこれらの航海者=交易者、対価物の生産者、鉄素材を加工する工人とどのような関係にあったか、を知ることは難しい。おそらくは、それらを組織することが首長の一つの大きな役割であり、その能力こそが首長に求められたとしても間違いではないだろう。

 かくして各地域、各国における首長、王の役割は二重だったということになる。第一に、それは水田稲作によって増加しつつあた稲作民の首長であった。そして第二に、その地位を維持するためにも、彼らは交易とそれにともなう加工業の組織者であったということになる。

 では、各地の首長、王は、相互にどのような関係にあっただろうか? もちろん彼らが個々の点では利害を異にしており、紛争を起こしがちであったと考えても間違いではないかもしれない。しかし、彼らが常に紛争にあけくれていては、交易は実現しない。彼らはここの点で利害の相違を感じることがあったしても、全体的としてみれば、相互に妥協し、むしろ「心を一つにして」協力しなければならなかったに違いない。これは倭の諸国が一つの「連合」を形成したことを意味する。そして、それが全体として見れば、倭国全体、そして各地域の利益を増進したに違いない、というのが私の仮説である。

 もちろん、そのように考えたからといって、畿内、邪馬台国がそのような交易関係(連合)の結節点に位置した中心地だという結論が自動的に出てくるわけではない。しかし、同時に邪馬台国が朝鮮半島と倭との貿易の最大の結節点としての役割を演じていた北九州の沿岸に位置していいなければならないという結論にもならない。例えば伊都国や奴国は、北九州における最重要な貿易上のハブのあった地点のように見えるが、どうやらそれは、どの北九州説論者によって邪馬台国ではないらしい。 

 

 これらの事柄に加えて近年の奈良盆地における考古学的発掘の結果は、状況証拠的にみて(もちろん、これについてはどうあがいても状況証拠しかないのであり)邪馬台国が奈良盆地にあったという見方をいよいよ強くしているように見える。