日本語の歴史 縄文語の蓋然性 弥生時代の人口統計学的環境? | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 言語史を考える場合、その地域の人口統計学的な検証をすることを避けては通ることができません。

 わが国の場合、縄文時代から弥生時代にかけてどのような出来事があったでしょうか?

 ここでは、日本列島に生じた出来事を3点にわけて考えてゆきたいと思います。

 1、縄文時代の後期の状況

 2、弥生時代の変化(日本人成立の「二重構造論」)

 3、人口統計学変化の推論

 

 1、縄文時代後期の状況

 今日では、ほぼ常識的な事実として知られているように、縄文時代の中期から後期にかけて日本列島に住む人々(人口)が著しく減少するという出来事がありました。人口減少は、地域によって異なっていたはずですが、特にそれまで人口の中心地であった東日本で激しく、西日本では相対的に軽微であったようです。が、それでも日本列島のほぼ全域で激しい人口減少が生じたことは、様々な考古学的資料から見て、疑いないようです。またこの人口統計学的危機の原因ですが、日本列島に限らず、東アジア全般、あるいはユーラシア大陸全般で生じた地球レベルの寒冷化にあったことも疑いないようです。そのため、寒冷化の影響のより厳し日本の北部、したがって東日本で人口がより大きく減少したようです。

 とはいえ、それでも縄文時代の人口の中心地は、縄文後期にあっても、やはり東日本にありました。今日の北陸、中部、東海、そして特に関東が最も人口密度の高い地域であったことは、様々な考古学的資料(住居跡など)の示すところです。おそらく落葉樹林帯の環境が縄文人に食料(山菜、魚、鹿・猪など)をより多く提供できたからでしょう。これに対して、肉厚で広い葉の常緑樹林帯に覆われていた西日本では、日光が地上にまで届くことが少なく、それが食料事情に深くかかわっていたと思われます。

 2、弥生時代の変化

 ところが、いまから3000年前~2800年前頃に状況がかなり急激に変化します。

 それは、大陸から、または朝鮮半島を経由して、水田稲作の産業技術を持った人々が日本列島に渡来しはじめたことです。今日の考古学研究からほぼ間違いない事実とされているのは、これらの渡来人(つまり渡来系弥生人)は、朝鮮半島の南端のクニグニから日本海を渡り、北部九州に移住してきたという歴史的事実です。

 ところで、明治時代以降、日本でも欧米の学問の影響を受けて、日本列島における現生人類の歴史に対する関心が深まり、その起源(つまり「日本人の起源」)に関する研究が行われてきました。そして、時間の経過ともともに、学会では、大きくいって3つの見解が成立します。すなわち、a)置換説(弥生時代に日本列島にやって来た渡来人がそれまでの先住人口=縄文人にほぼ完全に入れ替わったという見解)、b)継続説(弥生時代に日本列島にやって来た渡来人は無視できるほどの少数であり、新しい水田稲作も先住者=縄文人が外来の産業技術として取り入れたという見解)、c)二重構造説(弥生時代には、在来の縄文人と、水田稲作をもって移住してきた渡来人(弥生人)の混交または交雑(admixture or hybridization)が生じたという説)、という3つの説がそれです。

 ここでは、これらの3説について詳しく説明するつもりはありませんし、したがって込み入った論争史に分け入るつもりもありません。むしろ、近年の考古学研究や最新のゲノム解析によって、ほぼ疑いなく(99.999%?)「二重構造説」が学問的には受け入れられていることを前提に話を進めてゆくことにします。(おそらく、ナショナリズムや何かの学問外的な理由によって、他の説(特に継続説)にくみしたがる人がいるかもしれないと推測しますが、それは私には関係ありません。)

 さて、前にも書きましたが、論争に終止符を打つための決定打をはなったともいえるゲノム解析ですが、その最新の成果では、ほぼ次のことが認められています。1)現代の日本人は、縄文人と大陸(とくに中国北部から朝鮮半島)からやって来た渡来人との交雑が生じたと考えると最も合理的に説明できるゲノム上の特徴を持っている(篠田謙一氏、斉藤成也氏、太田博樹氏など)。2)またゲノム解析によれば、縄文人のゲノムと渡来人のゲノムは、1:4ほどの割合で混交したと考えることができるような比率であった(もちろん、この比率はラフなものであり、今後のより正確な解析によって若干変わる可能性がないわけではない)。

 

 *縄文時代の日本列島の人口中心地は、東日本、関東あたりにあったが、弥生時代には西日本に向かってシフトした。しかし、それでも、中心地が依然として近畿から東海を経て関東にいたるどこかにあったことは、明らかである。ここでは余談になるが、私には、政治的中心地が人口中心地からおおきくそれていたとは、まったく考えられない。 

 

 

 3、弥生時代の人口統計学的変化とその環境

 しかし、縄文系と弥生系の交雑の度合い(ゲノムの比率)が1:4だとしても、このことは、弥生時代のある時点で(例えば紀元前800年頃に)、当時の縄文人(30万人ほど)と渡来人(120万人)が短期間に出会い、混じり合い、新しい交雑人口が一挙に成立したとわけでは決してない。

 実際の変化は、もっとスローであり、漸次的であり、かつ長期(1000年も!)にわたっていた。

 しかも、新たに北部九州を経由して日本列島の各地に定住するにいたった渡来系弥生人は、はじめはごく少数であったとしても、人口を豊富に扶養することのできる産業技術(水田稲作)を持っていたのであるから、その出生率や人口増加率は、相対的に極めて高かったと推測される。このことを、数字を用いて説明しよう。

 

 

 上図(上)は、年々の人口増加率を、0.1%から1.0%まで0.1%きざみで示している。ここから読みとれるように、平均して年

1%の上昇率が続いても一世代(約30年間)の人口増加は、30数%にとどまっている。それは100人の村が130数人の村に成長するほどの速度である。しかし、もしこの速度が1000年間続いたらどうなるであろうか?

 上図(下)が示すように、そのような成長速度を持つ人口は、千年後には20000倍を超える規模になるであろう。これは、人口増加どころではなく、まさに人口爆発とも言うべき成長速度であり、現実にはありえないであろう。しかし、ここではあえて、現実にはありえない仮想をさらに続けてみる。この場合、当初、先住人口の100分の一ほどでしかなかった移住集団が1000年後には、先住人口の200倍にも達することになる。

 もちろん、これはありえない。実際には、水田稲作技術を持つ渡来人の人口成長はもっと抑制されたものであったに違いない。かりに彼らの人口が年あたり0.5%で持続的に増えつづけたら、その規模は、100倍ほどとなるであろう。これは実際に渡来した人口(渡来した祖先)が先住者の100分の1ほどであったとしたならば、渡来から千年後に同じ人口規模になったことを示す。

 とはいえ、どんなに実際に海を渡ってきた人々が少数であったとしても、その渡海が一回こっきりであったと想定するのも、まば馬鹿げている。実際には、毎回の渡来人口は少数であったとしても、1000年の間には、相当数の移住者がいたと考えなければならないであろう。他方、ゲノム解析の結果から見ても、渡来系(弥生系)と先住系(縄文系)とが、まったく無関係に(つまり交雑せずに)住み分けていたと想定するのも現実離れしていよう。かりに受動的にではあれ、在来系=縄文系人は、渡来系=弥生系の先進産業技術を徐々に受け入れていった節がある。その場合、彼ら縄文系の人口(またはゲノム)は、徐々に増えていったであろう。

 以上の経過を言語の歴史に照らして語るとどのようなことになるであろうか?

 一つの可能な想定は、例えば16世紀以降にイングランド人が北米に渡った時のようなことが生じたと考えることである。この場合、通常のイングランド人は、先住者(いわゆるインディオ)とはかかわりなししに、また彼らと先住者の言語を学ぶこともなく、英語を話す社会の中で、英語を使って生きてきた。南米でも状況はほぼ同じである。スペイン人やポルトガル人は、南米にかれらだけの社会を生み出し、彼らの持ち込んだ言語を用いるのみであった。

 しかし、文化的、産業技術的に先住者たちの上にいると自負しており、先住者たちの言語なしで生きてゆくことのできた欧州人の子孫たちと同じことが2000年以上も前の日本列島で生じたと考える必要はない。

 むしろ大陸からの移住者として常に先住者と共存し、交流する必要のあったと思われる渡来系の人々は、自分たちが常に圧倒的な少数者であることを自覚せざるを得ず、そこで話されている言語を学ぶ必要があったと思われる。その際、渡来した本人(一世)は、外国語を習得するのに困難を感じたであろう。しかし、その二世または三世ともなれば、縄文語をうまくしゃべることができるようになっており、むしろーーかっての日本人南米移住者のように--母国から持ち込んだ言語を忘れさるほどであったかもしれない。

 このように、自分たちの持つゲノム上では多数派となっても、言語上から見ると、移住者(特にその一世や二世)は常に少数者であり、先住者の言語(縄文語)を用いることを余儀なくされたというのが、私の結論的仮説である。

 要するに、弥生語、すなわち弥生時代の日本列島で話されていた言語は、本質的に縄文語から受け継いだものであった可能性が高い(蓋然的である)というが私のとりあえずの仮説である。もちろん、これは仮説、すなわち状況的証拠からそう言えるのではないかと思われる一見解に過ぎず、証明された事実とは言えないであろう。しかし、それは現代日本語が弥生時代に外から持ち込まれた何らかの言語の影響下ではじめて成立した言語であり、その親戚語がアジアのどこかにある(またはあった)という独断に比べれば、はるかにましなように思う。

 まだ落穂ひろい的に語るべきことがあるようにも感じるが、とりあえず、この主題については、ここまでにとどめておきたい。

 (了)