様々な異論がありながら、さしあたり古事記と日本書紀が8世紀の初頭に編纂されたとして、それらの編纂時には、すでに利用可能名史料・素材が在ったことは疑いないところです。修史局の面々がまさしく机上で一から創作したなどということは、ありえない話しです。戦前に記・紀の学問的な研究を始めた津田左右吉氏も、文献批判(text crtitics)の方法にもとづいて、ほぼ5世紀頃から素材の文字化が始まり、すでに6世紀中頃(つまり欽明天皇の時代)には「帝紀」「旧辞」と云われる古伝が成立していたこと、そして諸氏によってそれらの改変が行われているため、様々な異説が生じていることを問題とした朝廷人たちが異説並列という方法で整理していることを指摘しています。その上で、7世紀末から記・紀の最終的編集がなされたと述べているわけです。
今日、しばしば津田氏を批判するとき、論者によっては、津田氏が記・紀の「机上創作」に言及していることを取りあげ、記・紀の記述にも「史実」にもとづくものがあるのであり、すべてが机上創作のはずがない、などと云う人が出てきますが、そのように言う人は、おそらく津田氏を読んでいないのではないでしょうか。彼は文献批判にもとづき、様々な史料と素材の性質を考えながら、奈良期の史官たちが史料にもとづき歴史を構成しながら、それでも彼らの解釈・創作を交えたことを結論しているのであり、まったくの白紙からデッチあげたといっているわけではありません。もちろん、津田の文献批判がその後の学問的知見に照らしたとき、今でも成立するか否かは別問題です。これが私の基本的立場であり、これにもとづいて、記・紀にはそれらが利用した素材・史料となる古伝(帝紀や旧辞など)があったと考えています。
では、これらの古伝(帝紀や旧辞の他に様々な名称が日本書紀には出てきますが、これについては後で触れることにします)は、いつ成立したものでしょうか? そしてその内容はいかなるものであったのでしょうか?
まず前者から。これについては、記・紀が7世紀末~8世紀頃になってはじめて机上で創作されたものでもなければ、その頃になってヤマト王権によって史料収集が行われたものでは決してないことからも、合理的に推測できるはずですが、それ以外に確実な証拠と呼べるものはないでしょうか? 主に戦後に始められた学問的な日本書紀研究の結果、全三十巻からなる日本書紀が様々な観点から見て、1~13巻と14巻~30巻という二つの大きな群に区分されることが判明してきました。この「書紀区分論」は、これまで実に様々な視点から行われてきたため、ここでそれらの詳細にふれることはできませんが、項目だけあげると、1)使用語句、2)天皇(すめらみこと)の即位時の定都、3)皇子・皇女の記載形式、4)仮名字種、5)分注件数、6)語法分析(「之」の用法)、7)漢文の正格/非正格、などです。これらのうち、最後の漢文の分析はある意味で決定的だったと思います。
今日でも、日本人の書く英文の多くに和臭のする非正格英文とでもいうべきものがあることは、私にもよく理解できます。学生が論文に付すsummaryなどには、読む気もおきない酷いものがあることは、大学の教師ならしばしば経験していることでしょう。奈良時代に漢や韓からの渡来知識人からきちんとした漢文を教わった知識人にも、きちんとした正格の漢文を書くことは至難の業だったのでしょう。森博達氏によれば、彼が「α群」となづける第14巻~21、25~29巻は、そうした倭人ではなく、渡来系の漢人が書いたと推定される部分であり、それに対して「β群」となづける第1~13巻(プラス22~23巻)は、正格漢文から見ると当時の日本語のネイティブ話者とみられる日本人が書いたため、誤りが多く・和臭のする漢文で書かれた部分という結論になります。要するに、安康紀から後の部分とそれ以前の部分にかなりの相違があることが分かっています。
さらに暦法からみるともっと興味深く思われることが分かっています。
きわめて詳細な研究(小川清彦氏など)によって、日本書紀では、中国で使われていた「元嘉暦」および「儀鳳暦」という二つの暦法が使われていることが判明しているということです(私は、この点について素人なので、詳しい説明ができません)。この研究から導かれる要点は、旧い元嘉暦がより新しい時期(第14巻以降)に対して使われていて、より新しい儀鳳暦がより旧い時代(第13巻以前)という逆転した事態です。もう少し詳しく言うと、元嘉暦は南朝宋代の445年から509年に使われていた暦法であり、それがすぐに朝鮮半島に伝わり、またすぐに日本列島にも伝わったと考えられています。つまり日本では、5世紀後半から6世紀にかけて使われていたものと想定できるわけです。これに対して儀鳳暦は唐代の665年から728年に使われていたものであり、日本では7世紀末から(つまりちょうど記・紀の編纂が始まった頃に)使われ始めたと考えられます。このように旧い元嘉暦が第14巻以降について使われているにの対して、新しい儀鳳暦が第13巻以前について使われているという事実は、次のように解釈しない限り、つじつまが合わないでしょう。
要するに、この事実は、日本書紀の第14巻から後の(安康紀から後の)部分は、5世紀後半から6世紀にかけて存在していた古伝(帝紀と旧辞)を史料として書かれた群であり、もともとの古伝(素材・史料)に元嘉暦の記載があったと考えられることを指名しています。他方、第13巻以前の執筆に使われた古伝には、きちんとした暦法による記載がなく、そのために7世紀末に知られるようになった儀鳳暦の知識にもとづいて付け加えられたということになります。
それに加え、日本書紀「α群」の部分が依拠した古伝(帝紀、旧辞)自体が正格の漢文を書くことのできる渡来人の筆によるものであったとも想定できるのではないかと、私は思いますが、この点についての考えは、これにとどめておきます。
もう一つの問題は、帝紀と旧辞のそれぞれの内容ですが、これについては、推測を導くための材料がほとんどないように思います。あえて言えば、従来のほとんどの研究も、確実な根拠を欠いているように見えます。が、それでも、あえて若干のことを書き記しておくことにします。
「帝紀」と「旧辞」と書きましたが、日本書紀や古事記・序には、それ以外の様々な表記法が見られます。しかし、ほとんどの記載は、帝紀の系列に属するものと、旧辞に属するものの二系列に区分することができるようです。(多くの研究者、例えば津田氏もそのように考えています。)
1、帝紀、帝王本紀、天皇記、(記:帝皇日嗣、先紀)
2、旧辞、本辞、上古諸事、国記、臣連伴造国造百八十部公民等本紀(?)、(記:先代旧辞)
この二つの系列の古伝のうち、帝紀が中国の史書の「紀」を意識してネーミングされたものであり、おおきみ(すめらみこと、天皇)の事績を中心とするものであることは疑いないところと考えられますますが、その際、おおむね「おおきみ」(天皇)の系譜関係にかかわる事象なのか、それとも彼らの政治的行為、あるいは彼らにかかわる様々な政治的事象を含むのか、評価が分かれるところです。これは一方の旧辞の中身とも関係します。この旧辞ですが、本辞とも上古諸事とも先代旧辞(古事記)とも言われるものと同じと思われます。また推古紀に現れる国記(くにつふみ)とも同じものと考えられますが、この国(クニ)が日本列島の各地に存在したクニグニ(倭国連合を構成する各国)を意味するものであるとするならば、おおきみ(天皇)を除く諸国の出来事を記したものと見なすことができるでしょう。その中には、列島各地(南九州、北九州、出雲・因幡、コシ、吉備、四国、畿内、熊野・吉野、東海など)の事柄を記したものが含まれていたと考えることができ、当然、その中には神話的な伝承も含まれていたと考えなければなりません。記・紀の中に含まれている神話群は、私の言う「縫い目」の分析にもとづいて脱構築すると、北九州、南九州、四国、出雲・因幡、コシ、難波、熊野、伊勢など列島各地に由来するものから構成されており、それが一つの史的な構成を持つ神話体系にまとめ上げられているわけですが、それが7世紀末に突如集められたものでなく、古伝に含まれていたとするならば、その古伝とは旧辞(本辞、上古諸事)の中でしかありえなかったはずです。また推古期の当該箇所では、その国記につづいて「臣連伴造国造百八十部公民等本紀」なる語句が続いています。これは、普通、天皇記や国記とは別の素材とされているように見えますが、むしろ国記の内容を説明している語句のようにも見えます。つまり「国記、すなわち臣連伴造国造百八十部公民等本紀」と読むべきではないでしょうか? さもなければ、クニグニの歴史的事情を記した古伝の他に、さらにクニグニの歴史的事情を記した古伝があったということにもなりかねません。なお、補足すると、天皇記について、津田左右吉氏は、推古時代に「天皇」なる語がなかったことを根拠に同書の存在について懐疑的な意見を伝えています。もちろんそのように考えることもできないわけではありませんが、古い史料に「帝紀」などとあったのを、天皇号が行われるようになった後の(奈良時代)の史官が天皇記という名称に改変・造作した可能性は否定できません。
以上に述べてきたことは、簡単にまとめると、次のようになるでしょう。
1、4世紀と5世紀の交頃に、日本列島では、漢字を用いて、様々な事象(各地の王や大王の政治的行為、政治的事象の伝説、神話の口誦を文字化することが始まった。もちろん、そのような伝説や口誦には、いつともわからない古い昔から伝承されたきたものもあれば、つい最近のものもあったに違いない。また同時代的な出来事も文字化されたであろう。
2、文字化にあたっては、倭語とは異なる言語を表記するための文字(漢字)を用いなければならなかったため、様々な工夫がなさた。しかし、漢人系渡来人による教育も行われ、まずは漢文で表記する方法が基本的な方法として採用された。5世紀の中頃には、元嘉暦も紹介されて出来事の時期を示すことも行われはじめた。
3、しかし、漢文だけで日本語を文字化するには、様々な困難や不都合もあった。漢字が導入されたとき、音とともに訓も導入され、その間に一対一の対応(国:音kok, 訓kuni)がつけられたとしても、日本語の微妙な言い方を漢語で正確に表現するには限度があった。そこで、 漢字の音や訓(の音)を用いて日本語の単語を表記する方法(いわゆる万葉仮名のようなもの)が用いられるようになり、地名・人名・助詞、その他の微妙なニュアンスの日本語表現を示すために用いられた。これらの方法は、一つの文章中で混在して使われたため、かなり複雑な表記法が発展してきた(現在の日本語もかなりそうなっているように)。
前に示した詩(山常庭村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜●國曽 蜻嶋 八間跡能國者)には、そのような技法が駆使されている。が、「怜●(りっしんべん+可)」のように本来の日本語が不明となっているものもある。(通常は「うまし」と訓じているが、これでは7575と続いてきた調子が乱れるし、私には「うまし」が妥当とは到底思えない。)
また元嘉暦の導入以前の時期の出来事・伝承については、クニグニから伝えられた古伝が当初は一つの統一されら history に統合されてはいなかったが、おそらくは奈良盆地(ヤマト)に成立した王権が中心になって一つの壮大な歴史に統一されていったであろう。これがいつ、どのように行われたかをはっきりと示すことはできないが、「縫い目」がはっきりと残っており、そうした編纂が実施されていったこと自体は疑いえない。さらに、素材が文字化された当初は、暦による時期の割り当てができなかった素材についても、7世紀に唐代の儀鳳暦が輸入されるようになると、適当な方法によってこの暦法によって時期を割り当てられたと想定される。
いずれにせよ、300年を超える文字化と編纂事業の経過のあったことは、記・紀の文献批判から明らかになっていることは間違いありません。そこで、私たちは、古の実相に近づくためには、5世紀~8世紀に行われたことを逆転してゆかなければならないということになります。すくなくともある政治的意図から強引に一つに纏められたものをバラバラに分解し、本の姿に戻すところから、より古い日本列島古代社会史の実相に近づくための第一歩が踏み出されるはずです。