弥生時代から古墳時代にかけての日本社会の変化 環濠集落から首長居館、民衆の屋敷地の成立まで | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 戦後の考古学の発展によって、弥生時代から古墳時代にかけて人々の定住様式がどのように変化してきたか、かなり具体層が明らかになってきたように思う。

 

 日本列島の人々が、他の地域の場合と同様に、ある種の共同体を構成していたことは、西日本、東日本を問わず、ほぼ列島全域について認められる。

 弥生中期には、各地域内に相対的に大規模な拠点集落が形成され、その拠点集落のまわりに小規模な集落が点在していた。この拠点集落と周囲の小規模集落とは、多くの場合環濠に囲まれた・一つの共同体を構成していたと考えることができる。おそらくその機能は、水田稲作を実施するための一連の事業(開墾、苗の調達、耕作等)を行うことにあったと推測されるが、その具体的様相を考古学から明らかにするのは難しいかもしれない。この時代には、共同体の首長は、共同体の首長であったとしても、後の時代とは異なり、自分の支配する地域の民衆から地代(レント)を取得することをめざす豪族ではなかったであろう。そして、このような状態は、地域における社会的分業の組織にも現れていた。分業は、したがって市場は、多分に地域内的(inner-local)、互恵的であり、もし地域内で調達できないような物資を地域外から購入する場合にのみ、国内の他の地域に依存したと思われる。

 しかし、弥生時代の後期になると、事態は大きく変化したように見える。事態を根本的に変えたのはより効率的に農耕を行うのに必要であることが自覚された「鉄素材」の調達のためであった。そして、その背景には、それまで北部九州地域がほぼ独占していた鉄素材の(韓半島からの)輸入に対する利害を日本海・瀬戸内海・近畿・伊勢湾岸・それ以東の地が認識したことがあったようである。弥生時代後期初頭になると、日本海勢力(出雲・コシの勢力)が日本海航路を使った鉄素材の輸入に関与したことは、この時代の日本海側の遺跡(青谷寺遺跡、妻木晩田遺跡など)から北部九州に匹敵する(超える?)鉄素材が発見されることからも明らかとなる。その際、鉄は北部九州を経由せずに、韓半島から直接山陰地方に搬入されたかもしれない。

 しかし、その後、日本海航路が相対的に衰退し、それに代わって瀬戸内海航路が鉄素材の搬入路として拡大したらしい。弥生後期には、瀬戸内海、近畿、伊勢湾岸、それ以東の関東を含む地で、石器の利用が急速に縮小し、ほとんど石器は発掘されなくなる。ただし、これには異論があり、これらの地では北部九州で発掘されるような量の鉄器が発見されない以上、鉄器は依然として北部九州が独占していたに違いないという、確かに無視はできない考えもある。しかし、この時代には、瀬戸内海沿岸以東の地で人口が減少したという徴候はまったくなく、したがって仮に鉄器が北部九州の独占するところであったとするならば、これらの地は石器も鉄器もなく水田耕作を行ったことになる。実証研究に従事することが職務の考古学者の間では熱い議論が闘わされているようであるが、私は全体的な証拠からみて、仮説的にではあるが、鉄素材・鉄器は確かに東に運ばれていたとみる。

 その際、列島規模のフリクションが当然生じたと想定するのが合理的であろう。実際、考古学の他の遺跡・遺物から判断すると、伊勢湾沿岸以西の日本列島では、1)北部九州と四国西部(伊予)、2)出雲(山陰)・コシ、3)吉備(山陽)、4)近畿と伊勢湾沿岸の4つの地域グループが存在し、互いにしのぎを削っていたことが考えられる。言うまでもないかもしれないが、1)は銅矛銅戈の祭祀地域、2)は四隅突出墳墓の祭祀地域、3)はタテツキに象徴される墳丘墓と特殊器台の祭祀グループ、そして4)は見る銅鐸の地域である。そこには祭祀文化にとどまらない、地域首長連合が形成されるという出来事があり、それぞれの地域連合のシンボルとして異なった祭祀があったと考えるべきであろう(福永伸哉氏の指摘)。

 また結局、180年頃の「倭国乱」がこれら4グループの首長間のフリクションだっとするならば、その結果は、4を中心にして3、そしておそらく2のグループも一緒になって北部九州の鉄素材輸入独占を最終的に打ち砕いたと読み取ることができる。北部九州から見て、また近畿から見てさえ、後進的であった伊勢湾沿岸やコシの勢力もその一点では瀬戸内海以東のクニグニの連合に積極的となったはずである。鉄素材を得るための翡翠勾玉加工はいっそう活況を呈することになったであろう。

 もちろん、こうした変化の中で社会的分業と市のありかたも大きく変化してゆき、市における売買は、ローカルで互恵的なものではなくなっていた。

 だが、大量の鉄素材が東に向かって流れることになるという変化は、これらの地域の社会に大きな変化をもたらさずにはいなかった。それは各地、クニグニの首長(王)に、鉄素材を入手するための航海民との接触、市の開設、鉄素材加工工房の組織、鉄を得るための交換財の調達など一連の生産組織者としての役割を求めることになったからである。逆に言うと、それを果たせなかった者は首長の座を降りなければならないが、それに成功した者は、以前のような単なる共同体の代表者の比ではない、巨大な権力を手に入れることができたはずである。

 そして、実際に、弥生時代の社会にはきわめて大きい変化が生じている。それまでの環濠はもはや意味を持たなくなっており、首長は他の民衆(一般農民)の居住区から分離した独立の首長居館を構えるに至っているのである。その館の主は、もはや同じ環濠内の共同体仲間ではなかった。

 

 

 

 

 こうした鉄素材を中心として展開した社会の変化は、さらに古墳時代になっても続くことになり、それは、日本列島のあらゆる地域で確認される定住様式の変化にとりわけ明瞭に現れている。

 変化はまず、首長(豪族)の居館のありかたに現れており、下図の滋賀県下長遺跡の事例が示すように、豪族が他の民衆の居住区から完全に分離した独立の屋敷地を所有することに示される。この事例では、豪族の屋敷地は、40m×50m(2000平方m≒600坪)を超えており、濠によって囲まれていたが、一般的には豪の他に土塁や柵などによって囲まれることが多いようである。この屋敷地の中には、居館の他に、倉庫や井戸、祭祀用建物などが置かれていた。

 一方、一般農民(民衆)も、豪族の屋敷地よりも狭いものの、自分の屋敷地を構えるに至っていた。こうした屋敷地には、住居の他に、井戸や家畜小屋、倉庫などが置かれていたが、居住用の建物が複数見られる場合があることは、この時代の「戸」(世帯)が単一家族ではなく、分割した兄弟などの複数家族からなる屋敷地居住集団であったことを示しているかもしれない。

 彼らはまた小規模な集落を形成していたかもしれないが、その実態は必ずしもはっきりしない。後の令制下の国制では、国・郡の下に郷(里)が規定され、郷には50戸が属するとしたが、この「戸」も「郷」(里)も、民衆が自然発生的に作り出した居住単位なのか、それとも行政上(課税上の)の区分なのか、通説となっている解釈はなく、したがって実態ははっきりしない。

 しかし、一つだけはっきりしていることがある。それは、古墳時代の首長(豪族)は、民衆(一般農民)の上に立って、彼らに地代(レント)の支払を求める支配者となっていることである。すなわち、豪族は地代を負担する民衆とは異なる階級に属していたのであり、もはや彼らを擬制的にも同じ共同体に所属するメンバーということはできない。もとより、その際に首長がこれらのレント(地代)を、それが貨幣であれ、現物であれ、労役の形であれ、求めることができるためには、何らかの意味での生産組織者でなければならなかったことである。とりわけ開墾・耕作に際して種籾や農具を提供することは、自らの支配階級であることを維持するための必須の条件であったと推測される。

 ともあれ、ここまで社会が変化していたことが次の発展、すなわち武士社会の到来を準備したことは明らかなように見える。

 

 

 滋賀県下長遺跡の豪族居館(古墳時代、第1期の屋敷と建物)

 

 

 群馬県で発掘された農民の屋敷地(黒井峯遺跡)