神武東征は史実とはいえない 文字による記録の開始から帝紀、日本書紀の編集まで | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 いわゆる神武東征譚、つまり戦前に津田左右吉氏が史実ではなく、朝廷の修史局で作りあげられた物語と断じた「神武紀」のほぼすべてを、戦後はさすがに「史実」という人はいなくなったが、それでも「何かある史実を反映している」のではという思想は、完全にはなくなっていない。その際、人によっては複数の人物や集団についての様々な記録を寄せ集めて作りあげた物語であり、神武(正確にはカムヤマトイワレヒコ)が実在の人物ということをほぼ否定するものから、「何かある史実」を「ほぼ史実」にまで祭り上げ、ほぼ実在した人とするものまで、その程度は様々である。私は前者の立場であるが、後者の代表としてよく知られているのは、神武集団が北部九州は(現)朝倉市の地から奈良県の大和に東遷したという説であろう。しかし、後者は成立しない。その理由を、今回は、日本で文字による記録が始まってから、712年に日本書紀が成立する(つまり修正局で編纂される)までの経緯をできる限りたどりつつ、説明したい。

 

 前にも書いたように、おそらく日本で文字による諸紀録が始まったのは、5世紀以降のことと推測される。

 もとよりそれ以前に文字化(漢字を用いて文章を作成すること)がまったくなされなかったというわけではない。しかし、それは主として対外的にその必要があったときのことであろう。例えば3世紀の中頃、女王・卑弥呼は、魏と国交を結んだとき、魏の皇帝に対して何らかの文章(漢文)を提出したと考えられている。しかし、それは倭人が書いたというよりは、楽浪郡・帯方郡の漢字または漢文の素養のあった韓人(渡来人)の手を介してであったと想定される(上田正昭『渡来の古代史』など)。魏からもたらされた文章を倭語に訳すことの出来たそのような人もいたであろう。

 4世紀になると、倭人は韓半島を通じて晋(主に東晋)と交通を持つべく努めたが、妨害にあって実現しなかったという形跡がある。そして、5世紀になるといわゆる「五王」(「六王」とも)が上表文を宋に提出している。おそらく大王側近の「史」(ふみびと)がこうした外交文書の作成に携わったことであろう。日本書紀の記載を信じるとすれば、この頃に倭人は、中国または韓半島の漢字博士、僧侶、儒者を招き、漢字で書かれた各種の書籍を本格的に輸入し、漢文を学びはじめているのである。しかも、さらに注目されるのは、この頃に漢字を用いて日本語を表記する方法を開発し始めていることである。その際、韓半島の吏読(りとう)が大いに参考にされたであろう。いわゆる和臭のする漢文が書かれるようになると同時に、倭語(日本語の単語)が漢字の音を用いて表記されるようになっていた。早い話が『万葉集』で使われているような表記法の使用が始まっていたと考えられるということである。まちがいなく推測されるのは、ヤマトを始めとして倭国の各地の王都には、正格の漢文を話し書く人がいるとともに、和臭の漢文を書く人もいれば、日本語を漢字で表記する人も現れ始めたということである。

 

 ここに述べたことは、通説的に言われていることを私なりの言葉で要約したに過ぎないが、しかし、もしそうならば、次の二つのこともまちがいないこととして考えることができよう。第一に、5世紀から始まってしだいに、当時の(同時代の)出来事を記録に残すということが始まったということである。その場合、そうした記録に携わったのは、言うまでもなく漢字の知識のある人であり、漢文を書くことのできる人であったであろう。そのような人は、中国や韓半島からの渡来人に多かったに違いない。ただし、漢字を用いて日本語を表記する方法が開発され、広まるとともに、倭人の中にも同時代の出来事を記す人がいたと考えても別に不都合はない。

 しかし、それよりも重要なことは、次の第二の点である。まちがいなく考えられることは、それまで文字化されてこなかった過去(つまり主に4世紀以前)の記憶が文字化されたことである。しかも、その場合、文章を記した人は、主に(あるいは少なくとも傾向としては)、そのような記憶、すなわち口承、伝承に接する機会のあった倭人であり、したがって漢字を用いて日本語を表記する技術を持っていた人であったと考えられる。もちろん、渡来人や漢文を書く倭人が漢文を用いて記述したことがあったとしても間違いとは言えないかもしれないが、主流としては倭人が和臭の漢文や漢字を用いた倭語で書いたと考えるべきであろう。

 

 ここに述べたことが推測であることは、否定するべくもないが、そのように考えるときわめてうまく説明できることが多い。

 下図は、日本書紀の記載を数量的に分析するための表であり、神武から持統までの40代を5つに分けてある。10代ずつにまとめてあるので、基本的に1~4に分けられるが、崇神から安康まで(11代~20代)は2つに分けておく。ここで、「記述量」というのは、文字通り各「紀」の叙述にあてられている行数である(素材として国会図書館デジタルライブラリーの日本書紀を用いた)。また「在位年」は各天皇の在位年数(書紀の記載による)の10代ごとの合計である(ただし2aの中には神功が含まれる)。「平均在位年」は在位の平均値(年)を、記述行/年は一年あたりにあてられた記述の行数(平均値)を示しており、その後に現在の研究者によって示されている即位の実際の開始年(もちろん実在すると仮定した上の話しである)を示す。書紀群については後で説明する。

 ここで説明するまでもなく、4群(用明~持統)の10代の平均在位年数は10.8年であり、3群(雄略~敏達)の平均在位は12.9年で、私たちの常識に反することのない数字となっている。しかし、2b、2a、1と時代を遡るにつれて、平均在位年数は増えており、特に2aと1の年数は事実とは認められない。そこで、仮にこれらの天皇が実在したとしたならば、いつ頃のことなのか、修正した時期を載せておいた(これが絶対に正しいというわけではない)。しかし、年数の修正だけでは語れないなのが、1群(神武~開化)であり、そこには事績に関する記述がきわめて少ない。この中でも神武と崇神にはそれなりの記述がなされているが、その2代を除いた8代は、いわゆる「欠史八代」といわれるように、後世に(王廷の修史局で)造作された可能性がきわめて高い。しかも、以前から記してきたように(また後でも触れるが)、「神武紀」も海民をはじめとする様々な人々に関する記録を寄せ集めて構成されたものであり、一人(あるいは政治集団)の軌跡を描いたとは考えられない。それは、在位年を調整して10年を少し超える程度に修正すればよいという程のものでは決してないのである。おそらく王廷の修史局でも、どうにも加筆しようともできないほど圧倒的に史料が欠如していたという状況が浮かぶ。

 

 以上に加えて、ここでは次の点も指摘したおきたい。それは、森博達氏(『日本書紀の謎を解く』など)が指摘している次の事実である。森氏は、書紀の各巻が正格漢文で書かれているか、それとも和臭漢文で書かれているかを基準として、日本書紀の巻をα群(正格漢文の群)とβ群(和臭漢文の群)に二分した。これが現在日本書紀の成立を科学的に解明しようとする人にとって不可欠の知識となっていることは、あらためて指摘するまでもないだろう。

 ところで、31代の雄略から40代の持統にいたるまでの20代の「・・・紀」が(僅かな例外を除いて)α群に入る、つまり正格の漢文で書かれているのに対して、神武から安康にいたる20代がβ群(和臭漢文の群)に入っている。

 これは決して偶然ではありえない。つまり、上で述べたように、5世紀後半以降に統治した雄略以降については、同時代に記した正格漢文の史料が豊富に残っていたのであろう。したがって王廷の修史局では、その部分は安心して渡来系の中国人に委ねることができた。しかし、5世紀初頭・中葉以前の時代についてはそのような訳にはゆかない。その時代に関する史料としては、口承・口伝にもとづいて作成された史料、すなわち漢文にしても和臭の漢文もあったかもしれないが、漢字を用いて記された倭語の史料が多く、その解読と解釈は倭の諸事情に精通している倭人でなければできなかったからに相違ない。また王廷が書紀を編纂する意図を書紀の記述に反映させなければならなかったという事情もあったであろう。

 端的に言えば、雑多な史料を集め、その中から神武天皇の東征譚を編み出すということは、倭人の史官にして出来ることであったのである。この一事からしても、神武東征譚を安易に「何らかの史実を反映している」と考えることが疑問となる。

 

 

 ところで、8世紀の初頭に書紀が編纂される前に、すでにその原型ともいうべき「帝紀」が編纂されていたことは、明らかにされている。

 「推古紀」28(620)年是歳条には、

 「皇太子(厩戸)・嶋大臣(馬子)共に議り、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記、を録す。」

 

とあり、「天皇紀」が編集されていたと書く。当時はまだ天皇位は存在しないから、「帝紀」と呼ばれていたであろう。これと並んで国記、すなわち臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記も記録されていたというが、これは中国の史書の「伝」に相当するものと思われる。ともかく、日本書・紀の原型が生まれていたようである。

 ところが645年のクーデターの中で、それは失われた(か、失われかけていた)。

 「蘇我臣蝦夷ら、誅されんとして、悉く天皇紀・国記・珍宝を焼く。船史恵尺、すなわち疾く焼かるる国記を取りて、中大兄に奉献す。」

 ここで注目されるのは、一つには、船史恵尺なる人物が登場し、焼かれる寸前(?)の国記を取り出して、中大兄に献じたということであり、おそらく船史が史料作成・保管、修史の作業に携わっていたらしいことである。また国記は生き残ったが、天皇記(帝紀)は焼かれて灰になってしまったということであろう。それとも、焼かれて灰燼に帰することなく王廷に伝わったが、書紀に書くに及ばすということも考えられるが、そうではないだろう。

 この後の国記については、『姓氏録』の序文(814年)が次のようにしるしている。

 「皇極天皇のときに国記が焼けてしまったので、幼弱の氏(ウジ)は、その根源を失ってしまい、狡強なウジはほしいままに偽説を造った。ところが、船史恵尺が焼け残った国記を皇太子(中大兄)に進上していたので、皇太子が天皇(天智天皇)になったのち、庚午(670)年に戸籍を編造し、人民の氏姓(ウジ・カバネ)は正しく定まった。」(山尾久幸訳)

 

 ともかく、ありうるシナリオとして考えられるのは、620年にいったん成立した「帝紀」は、645年の藤原氏と中大兄によるクーデター(乙巳の変)で消失し、720年に日本書の「紀」として再度書き直された(編集された)というものである。

 弥生時代の終末期といえば西暦200年~250年頃のことである。500年も前のことを王廷の史官が史料にもとづいて書いたとは到底思えない。もし書けたとしても、それはきわめて曖昧なもうろうとした記憶にしか過ぎないであろう。