古代史の中では、邪馬台国所在地論と神武東征譚が「ロマン」をかきたてる二つの大きいテーマのように見えます。
そして、前者が九州説と近畿説の両者が互いにゆずらず、ほとんどの人の共通理解となるところまで行かないように、後者も通説といえるものが成立していないようです。そして、私が読んだかぎりでは、研究者=筆者自身で納得して書いている以上、人を説得する自信があるのかもしれませんが、人によって中身はバラバラです。ということは、共通理解が成立しているとは言えない状況ではないでしょうか。どうもこのテーマも人を泥沼に導くように見えます。それに読む側としては、立論が細部に至るほど訳(わけ)がわからなくなり、その本を読む気もしだいになえてくることが多い。
しかし、研究史上、少なくとも二人の研究者は、その当否は別として、実にスッキリした論を展開しています。
一人は、江戸時代の国学者、本居宣長。筋金入りのナショナリスト、といより皇国史観の持ち主であった本居は、日向から瀬戸内海を通り、熊野を経由して大和に至る神武東征譚を当然ながら史実として取り扱い(ちょっと疑問もありますが、たぶん)、疑問を持っていなかったはずです。ただし、その本居も、記・紀の「日向」や高千穂がどこなのか、途方に暮れたことは間違いありません。一方では、古事記は、「・・・筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」と記し、その少しあとに「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は吉き地」と書いているので、日向の高千穂は、北部九州に違いないと読めます。ここには、くじふる嶺に相当する山もあります。しかし、他方、その後の話の展開を見ると、どうも北部九州ではなく、南部九州らしい。しかも、昔は大隅も鹿児島も日向国であり、その地には高千穂の峰は、二つある。まったくわからん、というわけです。
さて、もう一人は、戦前の津田左右吉氏であり、彼は記紀の成立に至る文献の成立史の検討の上にたって、日本で文字化が行われたのは古くても5世紀以降のことであり、しかも神武天皇(というより正確には、カムヤマトイワレヒコ)の時代の文字記録が存在したわけではない。それまでに口承が残っていたはずもない、という立場から、基本的には神武東征譚は作り上げられたものであり、史実ではないとバッサリ。
この両者の間で、戦後の多くの研究者は、記・紀の記載がそのまま史実でないことは勿論であるが、かといってまったくの創作でもなく、「何らかの史実を反映している」可能性があるのではないかと考えるに至るわけです。
しかし、何らかの史実といっても、その程度は人によってまちまちです。安本美典氏のように、北部九州(福岡県)の朝倉市あたりにあった邪馬台国の政治勢力が奈良盆地に移動したという歴史的記憶が記・紀に結実したというように、ほぼ全面的に史実と認める意見もあれば(ただし、出発地は旧日向国=現宮崎県ではなく、朝倉市に変えられている)、一つの政治集団ではなく、様々な人々(主に交易のために漂白していた海民の諸族)の活動に関する多くの断片的な記録が一つの神武天皇という人格に纏められて、カムヤマトイワレヒコの東征譚が生まれたという意見もあります。なお、私の意見は、このうち、ほぼ後者に傾ています。その理由は、これまでも部分的に述べてきましたし、以下でも触れるつもりですが、とりあえず一、二点だけ述べると、カムヤマトイワレヒコの日向・高千穂宮にいた時の名前がワカミケヌ(またはトヨミケヌ)であり、名前の核心がミケヌであることは間違いありません。しかし、このミケヌがめでたく大和の磐余の地に着くと、カムヤマトイワレヒコという味も素っ気もない、単に地名(ヤマト、イワレ)にカムやヒコをつけたネーミングになってしまいます。もう一つ、日本書記では、ミケヌにヤマト行きを勧めたのがシオツチですが、これはシオ(潮)ツ(の)チ(貴人のこと)であり、まさに海民に他なりません。この他にも神武東征端には、海民にかかわる史料にもとづいたことが見え見えな部分が満載ですが、ここでは省略します。
ここまでははっきりしています。しかし、イワレヒコの東征の目的地がヤマトとなっているのは自明のこととして、出発地としてなぜ日向が選ばれたのか、なぜ熊野--あの山中の地--を選んだのか? これは決して自明ではなく、また説明も容易ではありません。
もちろん、ミケヌの祖先(いわゆる日向三代)の居住していた地が日向の高千穂宮であったからには、平仄を合わせるために、そこを出発点としなければならないことは言うまでもありませんが、逆に言うと、なぜミケヌの祖先が降臨した地が日向でなければならなかったのか、という疑問が出てきます。そもそも、その前段に出雲神話、つまり大国主神の国作りがあり、国譲りがあったわけですから、読者としては、天孫降臨の地は出雲かヤマトかと期待していたところ、日本列島の南端とあっては、「えっ、どうして」と首をかしげたくなります。
このような疑問に対して、ヤマト朝廷が南九州出身の「隼人」に対する支配を正当化したり、あるいはむしろなだめるために、隼人(海幸彦の後)と大和勢力(山幸彦の後)は同族だったのですよと言おうとしたという意見もあり、一つの仮説としてはありうるかもしれませんが、あまりすっきりしません。
ここはやはり、ヤマト政権の中には自分たちの祖先(もちろん、その一部です)が日向からやってきたという意識(歴史的記憶)があったからではないかという意見を認めたほうがよいのかもしれません。
しかし、そのことを証するために系図のこまごました分析を行う必要はありません。そんなことをしても、記述がごちゃごちゃするだけであり、人を説得することはできないでしょう。
むしろ次のことを認めれば足りるのではないかと思います。
1、日向にもいた海民(交易民、鉱物採掘民、海賊の性格を併せ持つ人々)が全国を漂白していたこと、
2、これらの海民は、海民相互間で、また各地の豪族(農耕色の強い人々)との間で婚姻を通じて親族関係を結んでいたこと、
3、韓や倭では双系制の観念が優勢であったという人類学的特徴を以前指摘しておきましたが、そのために、母系であれ、父系であれ、双系的なキンシップで結ばれていたという感情を残したこと、遠い母の国に対するなつかしさの混じった憧憬は、子孫にまで伝わったかもしれません。これは現代でも同じことです。
これらに加えて、交易に従事していた海民は、早くから文字化に慣れ親しんでおり、神話や祖先の業を書いたものを伝えていた可能性があります。
しかし、こうしたことを詳細に、かつ正確に突き止めることは、今となってはほぼ不可能と思います。可能と思って作業に深入りすればするほど、泥沼に足をすくわれてしまうということになるかもしれません。
一方、なぜ熊野を迂回する話が東征譚で重要となっているのか、こちらについては、もう少し事情ははっきりするかもしれません。というのは、熊野から吉野にかけての地は、信濃の諏訪あたりに始まり、四国を通り、熊本・鹿児島あたりまで続く中央構造線の通っている場所であり、そのことと関係して水銀朱(ニウ)などをはじめとする各種の鉱物を豊富に産出する土地です。ここには、古代から様々な人々が入り込み、鉱山開発をしていたことが知られています。わが海民たちもおそらくは交易財を求めて、海岸からこの地に入り込んだ痕跡があります。その一つは、和田の地名です。和田(海を意味するワタ、ハタ)は、瀬戸内海の広島あたりから紀伊の国にかけて広く分布していますが、注目すべきことに現熊野市あたりから奈良盆地にかけて濃密に分布しています。
過去の現実世界では、これらの山中に分け入った海民は、すでにそこに住んでいた先住者と様々な関係を取り結んだでしょう。もちろん摩擦や紛争もあった(エウカシの例のように)かもしれませんし、また協働関係を築いたこともあった(オトウカシのように)かもしれません。ヤマトの王家は、葛城の豪族と婚姻関係を結んでいたとされていますが、この葛城勢力は紀伊や熊野の海民・交易民と深い関係にあったことが推測されています。したがって間接的に、あるいはもっと直接的にヤマト王家が海民と親族関係にあり、その持てる家書を入手した可能性は高いと思われます。
神武がなぜカムヤマト・イワレヒコというように、熊野・吉野に隣接する地域の名を称し、また記・紀が熊野・吉野の方向からやってきたと語るのかも、これで説明できます。
おそらく現代の私たちがぼんやりとではあれ、語りうるのは、ここまでであり、それに以上に詳しく正確な状況を明らかにしようとしても泥沼にはまり込むだけであり、無理な相談というべきではないかと思います。
(熊野と吉野の鉱物資源については、別の記事を用意したいと思いますので、とりあえずは以上にとどめておきます。)