自選・コシ国風土記 3 夫婦間の争い | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 江戸時代に書かれた越中の『喚起泉達録』や『肯搆泉達録』には、面白い話しが書かれています。

 能登のイスルギヒコと夫婦関係にあった姉倉ヒメは、夫のイスルギヒコが能登ヒメと浮気をしてしまったために、怒って能登ヒメを攻撃したことは、前にも書いた通りですが、その舞台となった場所を下に地図で示しておきます。

 その姉倉ヒメは、能登ヒメを攻撃するときに、船倉山にあった石がすべてなくなってしまうくらい、激しく石を投げたということですが、その真相はともかく、この紛争を静めるために出雲からはるばると大巳貴(オオナモチ)命がやって来ました。それを知った姉倉ヒメは柿梭宮(カキヒノミヤ)まで逃げましたが、オオナモチは、彼女を捕らえ、罰として、小竹野(呉羽の姉倉比売神社の地)に流刑にし、また布を織って貢がせるとともに、婦女子に織物を教えることによって贖罪することを命じました。さらに姉倉ヒメに加勢した布倉ヒメにも、同じように布を織って貢がせ、織布を教えることを命じました。一方、能登の補益杣木の二神については、海浜にさらし、その上、能登ヒメに加勢した加夫刀山の神に対しては、山を崩して海を埋めた上で、風濤が起きても陸へ上がることがないように防ぐことを命じました。

 こうして、そのお陰で、その後、越中の名産八搆布が広く世に出ることとなりました。また一方、能登補益杣木の神は、中古まで、二月初午から神輿を海浜に遷し祭礼を行っていました。また能登の海が荒れんとする時には、加夫刀山に熢燧のような気が生じたといいます。

 

 こうして夫婦喧嘩を調停し、丸くおさめたオオナムチですが、この出雲神も夫婦間に問題を抱えていたようです。『能登名跡誌』によると、越後(ヌナガワ郷)から、なんらかの理由で気多本宮の近くに位置する鵜浦まで来ていたヌナガワヒメとめでたく結婚しました。ということで、コシの気多大社、気多本宮、気多神社、居多神社には、大巳貴命と沼川姫命が祀られています。

 しかし、ここまではよかったのですが、その後、ヌナガワヒメは、何らかの理由でオオナムチと不仲になり、郷里に帰ってしまいました。理由はまったく分かりません。

 ともあれ、これに関係してか、江戸時代まで毎年行われていた気多大社の鵜祭りでは、鵜浦で捕られた鵜が東側の七尾湾から西側の気多大社まで運ばれ、その境内に放つ行事が行われていました。これらの鵜は富山湾を超えて越後(沼川郷、中山郷=能生町の白山権現神社の方面)まで飛びたって行くと考えられていたようです(『能登名跡誌』)。

 しばしばヌナガワヒメは、硬玉・翡翠が取り持つ縁でオオナムチと夫婦になるというシチュエーションが主に考えられていて、それも確かに一つにはあったことは疑いありません。しかし、沼川郷の女性はもちろん一人しかいなかったわけではなく、たくさんいたはずです。また出雲からやって来た人(オオナムチ)も一人ではなく、たくさんいたはずです。したがって中には、海人にとって重要な役割を果たしていた鵜が縁となって結ばれたカップルがいても不思議ではありません。実際、前にも書いたように、ヌナガワヒメの祖先には、オキツクシイ、ヘツクシイという人がいました(『出雲国風土記』)。沖といい辺といい、海に関係する言葉です。ともかく、出雲と越前・加賀・能登・越中は密接な交通関係を持ち、越後もこれらの土地を通じて交通関係を持っていたようです。