倭人の地に関する沈寿の地理的イメージ 不可思議な、あまりに不可思議な・・・ | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 今回も、邪馬台国の位置についての記事になってしまった。

 前にも書いたかもしれないが、本来、邪馬台国の位置は私にとってあまり重要なテーマではなかった。というは、学問外的、郷土ナショナリズム的、あるいは誘致論的には関心がないということである。そもそも私の郷里は新潟県(旧越後国)であり、どうあがいても邪馬台国を誘致できるような土地ではない。郷里には大和川という川があり、それが頸城国造=青海首(海人族・シイネツヒコの裔)と関係づけられることはあるが、誘致するには力不足である。また私は、福岡市東区に5年間暮らしたことがあるが、それだけで誘致したくなるほどの郷土愛が生まれるわけでもない。

 しかし、学問的には、関心がないどころではない。おそらく中国の文献から判断する限り、紀元1~2世紀の段階では、倭人の政治的中心地が福岡県の沿岸部にあったことはまちがいないし、ほとんどの研究者が同意するであろう。一方、いわゆる「倭の5王」が登場する5世紀ともなれば、倭国の中心地が大和(奈良盆地)あるいは近畿にあったことには、ほとんどの研究者の同意が得られていると言ってよいだろう。ということは、2世紀初頭~5世紀初頭の300年間に倭国の政治的中心地が九州北部から畿内に移動したことは動かない事実と見なされるということになる。したがって問題は、この移動がいつ生じたかという点に集約されることになる。それは何時のことであり、またいかなる事情によるものだったのか、という点に収斂する。これは私にとってもきわめて大きい関心事である。

 

 さて、言うまでもないが、邪馬台国なる名称は、中国の史書にのみ登場する国名であり、したがって仮にそこにその名称が載っていなければ、位置論争などまったく問題ともならなかったはずである。したがって議論が中国文献に、また最も根本的な史料というべき魏志倭人伝に、またその里程に関する記事に集中するのはもっともなことである。

 しかし、なんとも不思議なことに、寡聞にして、私は、その里程記事に忠実に従いながら、帯方郡から邪馬台国までの里程を地図上に落として示した文献を見たことがない。もちろん、いわゆる里程に関する概念図は見飽きるほど見たことがある。私の言うのは、実際の地図と対照しながら、そこに落とした図を見たことがないということである。

 そこで、実際にそのような地図を作成してみた。(下図参照。)

 この図は、次の二点を前提として作成したものである。

 1,魏志倭人伝の筆者(沈寿)は、繰り返し繰り返し、邪馬台国が会稽東冶の東方海上にあることを確認している。この事実は無視できるものではなく、問題を議論する場合の出発点になるべきものであろう。

 2、一方、帯方郡から狗邪韓国、対馬、一支、末盧、伊都、奴、不弥、投馬を経て、邪馬台国にいたる全行程は、12,000里とされている。途中、東行または東南行するところがあるが、基本的には南行であり、帯方郡からみて10,000里ほど南下し、2,000里ほど東行して到着する場所が邪馬台国である。(いわゆる放射線式の場合には、ごくわずかな修正が必要となるが、本質的にはほぼまったく変わらない。念のため。)

 この1の帰着点と2の帰着点は、沈寿の頭の中では、一致していたはずであるから、図では里を比例的に計算して両者が一致するように作成してある。念のために、実際の地図も下方に載せておく。

 両者を比較すると、沈寿が倭人の地についていだいていたイメージが実際の地理的状況とは大幅に違っていることがあらためて明らかになる。気づいた点を順不同にあげていこう。

 1,朝鮮半島の大きさが実際よりきわめて大きい。そのため、その南端にある狗邪韓国が上海の東方海上にまで伸びているほどである。これに比べて倭人の地は、なんと狭いことか! (「山島に依り国邑を為す。」)

 2,またこれと関係して、北部九州の地(末盧、伊都、奴、不弥)は、蘇州の東方海上にまで南下している。ちなみに、沈寿が倭人の地を南方にあると考えていたことは、産物や風俗記事からもうかがわれる。実際、それらの記事は、倭人の地が南方にあることをたびたび「確認する」ためであるかのような文章となっている。

 3,奇妙な点は、不弥から投馬を経て邪馬台国にいたる(放射説の場合は、伊都から邪馬台国にいたる)距離が1300里ほどに過ぎない(=12,000里マイナス10,700里)と書く(計算する?)一方で、水行30日・陸行1月(水行20日プラス水行10日・陸行1月=2ヶ月)としている点である。

 これが奇妙なのは、水行・陸行1日でどれほどの距離(里)を進むことができたのか、にもよるが、里数による表示と水陸による日数との間の乖離が激しすぎるように見えることである。いま当時の中国の尺度に従い、1里≒430メートルと想定すると、1300里は560kmほどとなる。この距離を水行・陸行するのに2月(60日)ほとかかるということは、一日に9.3kmほど進むペースに過ぎない。これはあまりにも遅すぎないだろうか?

 しかも、このペースは、他のクニグニ間との距離や移動日数との平仄にも齟齬をきたすように思われる。例えば狗邪韓国ー対馬間、対馬ー一支間、一支ー末盧間はそれぞれ1,000里とされているが、当時の1里を杓子定規に当てはめると、430kmとなる。これはあまりにも大きすぎる数値であるが、それともそれらの水行に1月半もかかったのであろうか?

 これに対して、理念上の里(1里=430メートル)ではなく、比例的な里を使うべきではないかという無視すべかざる意見がある。(短里という意見もあるが、そのようなものは実在しないと考えるので、ここでは採用しない。)

 この意見に従えば、例えば中国大陸上では、一方で<帯方に対応する地>から<会稽東冶に対応する地>の距離(南下)が1,600kmほどであり、他方で(先に述べたように)10,000里ほどであるから、1里は約160メートルと計算される。ただし、これは地図上の直線距離であって、中国史上実際に使われた里は、実際に歩行した距離であるから、地図上の直線距離より大きくなるはずである。いまそれが地図上の直線距離の1.5倍~2倍であると想定すると、一里は、240メートル~320メートルほどになる。したがって会稽東冶は、実際より遠くにあると見られていたことになる。

 それはともかく、この<比例的な里=240~320メートル>という関係を使うと、どうなるか? いうまでもなく、先ほど指摘した乖離が決して解消されないことは説明するまでもないだろう。つまり1300里は、312kmないし416kmに相当することになり、この距離を(水・陸で)行くとき、その一日あたりの進行ペースは、5.2kmないし6.9kmほどとなる。いくら当時の道路事情や航海事情ととなっていなかったとしても、あまりにもゆっくりしすぎるぺースではないだろうか。

 しかし、様々な問題(齟齬)が存在することは間違いないが、それと同時に一つのことは明らかである。陳寿は、様々な成立事情を異にする資料にもとづいて彼の地理的イメージを作成しており、現実の地理的状態とはまったくことなった地理的イメージを持つにいたったことである。それと同時に、北九州論者が金科玉条にように大切にしている記事(邪馬台国は伊都国等の南方にある旨の記事)が決して九州説を支持するものではないということである。

 残された道は、私が言うまでもないが、陳寿の依拠した資料を精査し(文献批判し)、その現実と異なった・混乱したイメージが何故、どのようにして生まれたを明らかにする以外にはない、ということであろう。しかし、結局のところ、そうした文献批判にも限度があり、私たちは日々成果を新たにしている考古学的研究の成果に目を向けるしかない、のであろうと思う。