弥生時代末期 拠点集落(主に環濠集落)と列島における分布 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 弥生時代には、日本列島の各地に大小の集落が形成されてきたことは言うまでもありません。

 そうした集落の中には、小規模な集落、そこに住む人口にしてせいぜい50人~100人(10戸~20戸)程度のものもあれば、500人(100戸)あるいは1000人(200戸)を超えるもの、2000人程(400戸)度のかなり大規模なものまで含まれています。これらのうち500人を超えるものを拠点集落と呼び、その中でも隔絶した規模を持つものを中核集落と呼ぶことも行われているようですが、これらの大規模集落は多くの場合、周囲に環濠をめぐらした所謂環濠集落であり、その中でも各地域(和名抄に言う国のレベルまたは半国のレベル)の最大ものは、その国の大首長(大王、オオキミ)階層の人々が居住してた集落ではないかと言われています。少し簡潔に理念系的モデルを作成すると(下図)、そこには首長館とその首長層のために様々な機能を果たす人々(手工業者、家政を行う者、他)の居住区があるのは勿論のこと、(高床式)倉庫、祭殿、工房群、市(マーケット・プレース)、物見櫓などがあり、また(多くの場合)その外部の隣接地に墓地(墳墓群)があったようです。通常、これらの集落は、水をたたえた環濠によって囲まれており、その目的は戦争のためと説明されることがあるようですが、私の意見では、隣接する同じようなクニとクニとの間の戦争もなかったわけではなかったかもしれませんが、むしろ居住地や倉庫、工房などを盗賊(他国または同じクニの人々)などから保護するためのものであったように思えます。もしクニとクニとの戦争が恒常的にあったのであれば、防御用の施設だけでなく、当然の論理的帰結として、少なくとも数十キロメートルも離れた隣のクニを攻撃するための武器や兵士をそれなりに大量に備えたかなり高度の軍事的施設が存在しなければなりませんが、そのようなものは発掘されていないようです。もっと後(古墳時代)の事情を考えても、そのようには思われません。

 この中核集落より少し規模の劣る拠点集落でも、規模の点では劣るとしても、大規模集落はほぼ同じような構造と機能をもっていたようです。おそらくクニの中核集落(大首長の居住地)と拠点集落(首長の居住地)には、何らかの序列関係があり、相互に連携しあったいたものと思われます。(時には、対立・抗争する場合があったかもしれないことは否定しません。)もう一つつけ加えておくと、これらの中核集落や拠点集落は、交易品が荷揚げされ、荷積みされる港湾と密接に繋がっていたことも疑いありません。これまで何度も強調してきましたが、鉄素材を得ること、そしてそのために交換財を調達・生産すること、総じて生産を組織することは大首長・首長たるための不可欠の役割だったはずです。

 一方、小規模な集落は、考古学的な観点からすると、あまり注目されないかもしれませんが、クニの人口から見ると最も重要であり、圧倒的な多数であり、これらの拠点集落や中核集落とは、農具の調達などをはじめとして、無視できない相互依存の関係にあったと考えるべきと思います。

 

 

 それでは、大規模な中核集落・拠点集落は、日本列島全体の中で、どのように分布していたでしょうか?

 吉野ヶ里(北九州)、上東(山陽)、妻木晩田(山陰)、池上・曽根、唐古・鍵(近畿)、伊勢(滋賀県)、朝日(愛知県)などの環濠集落は、様々な場所で紹介されますが、その他のものも含めて列島全域における分布が紹介されることが少ないようですので、調べてみました。

 

<九州> 

主に北九州に分布しています。筑紫平野から佐賀平野、熊本平野に集中していますが、南では宮崎県の宮崎平野にも拠点集落が見られます。

 

 

 

<中国・四国>

 山陰では大きく出雲圏に含めることができる妻木晩田遺跡があり、旧吉備国(岡山市)の上東遺跡、旧播磨国にいくつか存在しています。四国では、旧伊予国、旧讃岐国、旧安房国の中心地に存在したことが確認されます。

 なお、広大な岡山平野を擁する旧吉備国の中心地(倉敷市~岡山市)では、はっきりした環濠を持つ巨大集落が少ないような気がしますが、これは一部は発掘調査の進展度、発掘が行われた時の事情により、一部は、吉備では吉野ヶ里や池上・曽根、唐古・鍵のような巨大環濠集落が形成されずに、相対的に小規模な(非環濠)拠点集落が多数形成されていた可能性が指摘されています。しかし、まだ一部しか調査されていない上東遺跡といった中核集落があることは疑いありません。

 

<近畿>

 大阪府、奈良県、京都府の地域に巨大な中核的環濠集落が存在したことは言うまでもありません。また日本海側の丹後国(旧丹波、旧但馬国)にも拠点集落が存在したことが注目されます。

 

 

<東国>

 ここでは、まず伊勢湾岸、特に濃尾平野にいくつかの拠点集落が見られます。特に清須市の朝日遺跡が見逃せません。ここは、もし邪馬台国=ヤマト説がなり立つならば、それと抗争したことが記述される狗奴国と疑われる土地にあり、その意味でも注目されます。

 次にすでに日本海側でも釜蓋遺跡(新潟県妙高市、上越盆地)が旧越後国で最大の環濠集落だったことが判明しています。

 さらに野(ノ)のクニ、美濃~信濃~毛野にも弥生時代後期に大環濠集落が形成されていました。また南関東(神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県)にも大環濠集落が形成されていたことが確認されています。(ちなみに、かつては横浜市の大塚・歳勝土遺跡がこの辺りのクニの中核集落と見られていましたが、今では折本・西原遺跡が中核集落と見られるようになっているとのことです。

 

 魏志倭人伝のとらえた倭国の範囲がどの地域なのか、私ははっきり断定することはできませんが、感覚的には、北九州の範囲内に収まるとは到底考えられず、しかし新潟ー群馬ー埼玉ー東京ー千葉を結ぶラインまで達していたとも思えず、とりえあえずは、最古の「東国」を除く範囲、つまり若狭ー濃尾平野以西のクニグニではなかったかと思われます。

 

 さて、以上示した環濠集落・中核集落の存在地点は、古墳時代・出現期、前期の墳丘墓・古墳の存在地点とかなりよく一致しています。したがってそれを弥生時代終末期のクニグニの形成と重ね合わせて見ることができるでしょう。

 以前、魏志倭人伝の国名がその後(和名抄)の国郡名に比定できるのではないかと考え、いくつかの記事を書きましたが、次は、地名の類似に加え、ここに示した中核集落、墳丘墓・古墳の立地を合わせて考えて見たいと思います。

 またこれらのクニグニがどのような交通関係を有していたかも、是非、さらに詳しく調べてみたい点ですが、かなり複雑な作業になるので、それは時間を見てということにします。

 

追記

 弥生時代から古墳時代に移り変わったとき、人々の定住様式がどのように変わった?

 このような定住様式の変化は、ヨーロッパでも、例えばドイツでも近代以降かなり詳しく調べられてきましたが、日本でも考古学的史料によってかなり明らかにされてきたように思います。

 私にとっては、定住様式が弥生時代の後、どのように変わったかが特に関心のあるところですが、大きく変化したのは、弥生時代には首長層の政治的・宗教的・政治的権力が著しく強化されたという事実にもかかわらず、彼等は依然として共同体の首長であり、他の階層の人々と同じ集落内に居住していたのに対して、次の古墳時代になると、両者の居住区(屋敷)が截然と区分されたという点にあるように思います(都出比呂志氏の研究など)。

 

           豪族の屋敷                     通常人の屋敷                           

 

 有力者の屋敷には、その家族の住居の他に、倉庫、工房、井戸が置かれ、さらに家人(中世的な用語では、イエノコ)の住む住居が置かれている。家人には、手工業者、調理などのサービス者、家政管理者など)があり、ヨーロッパの場合、この中(従僕Knechte, ministerial )の中から後の騎士、大臣が成長してくる。

 この有力者の屋敷に比べると普通の農夫の屋敷は、小規模だが、自分の屋敷地を持ち、そこに住居の他に倉庫(納屋)や家畜小屋、井戸などの設備を持つようになる。このように離れた場所に別々の個人的な屋敷地を持つという点で、この定住様式は、弥生時代の集落と決定的に異なる。