航海と交易で繋がっていた日本列島 弥生時代から古墳時代へ | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 弥生時代が何と言っても水田稲作の時代であることは、あらためて言うまでもない。

 しかし、これも言うまでもなく、水田稲作という産業技術が単にそれだけで存立しうるわけでは決してない。それを支える様々な産業が必要であり、水田稲作はそうした諸産業の連関の中でのみ成立する。産業連関は、決して現代の資本主義経済の独占物ではない。

 きわめてルーズに考えただけでも、水田稲作を支える産業として、1)開墾のための土木事業(田圃の造成、水利)、2)土木事業や稲作に必要な道具の生産、3)道具生産に必要な鉄素材の調達、4)鉄素材を加工する鍛冶業などが考えられる。

 ところで、この鉄素材は、東アジアではもともと中国で行われたものであり、次に朝鮮半島に渡り、最後に日本列島に渡ったとされている。しかし、日本列島で「製鉄」が行われるようになったのは5世紀以降のことであり、それまでは列島内で小規模な鉄生産が行われていたかもしれないとしても、大半は朝鮮半島(特に加羅、カヤ地域)から輸入に依存していたとされている。これが現在までの考古学的研究の支配的見解のようである。この見解には異論もあるが、ここではすくなくとも5世紀まで鉄資源は、朝鮮半島南部の加羅諸国から輸入されていたことを前提として議論を進める。

 

 では、この鉄資源はどのように獲得されたのであろうか? 有名な三国志。魏志東夷伝・「韓」の条には、「国は鉄を出だし、韓・濊・倭皆従いて之を取る。諸の市買には皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如くして、又以て二郡に供給す」と記されており、倭(倭人)も鉄を取得するために弁辰の地に来ていたことがわかる。

  しかも、この叙述がはっきりと示しているように、鉄の生産や調達は韓(あるいは倭)の政治権力(王権)がその政治的・軍事的権力を行使することによって取得・分配したのではなく、市場を通じて調達されていたことがはっきりしている。すなわち、鉄を入手するためには、その反対給付のために何らかの財物が必要であったことは明確である。いや、かりに王権の関与があったとしても、鉄を得るためには、その反対給付として何らかの財が必要であったことは疑いない。これは現在の市場に限らず、古代社会でもまったく変わりない。

 

 それでは、「倭」が鉄素材と交換に供給することのできた財とはいったいどのようなものであろうか?

 このような主題を明確に提示し、追求した研究は、決して多いとはいえないが、なくはない。そのような研究によって挙げられた財として、よく取り上げられるのは、玉(特に硬玉の翡翠)、生口(生身の人間、奴隷?)、その他の一次産品(例えば塩、海産物、塩、丹・朱など)である。ちなみに三国志・倭人伝には、倭国の産物が列挙されている段落があり、真珠・青玉、丹、各種の木と竹、しょうが・山椒・ミョウガ、猿・雉が挙げられているが、もしかするとこれらは日本列島から半島へ、そしてそこから中国へ搬入されていたものかもしれない。各種の海産物は、同じ段落に列挙されていないが、文中では言及されている。

 しかし、これらの財の多くは、考古学的資料として残ることはなく、ただ玉(硬玉翡翠)が(丹も?)発掘されるだけである。そこで、この観点から玉を取り扱うことにより、当時の鉄素材取得交易の実態に近づくことが可能となるであろう。

 

 翡翠が鉄素材を取得するための交換財として大きい役割を演じたことは、まず巨視的な観点からみて明らかとなる。

 戦前から戦後にかけて明らかになったが、硬玉翡翠の原石産地は、現糸魚川市の小滝川(姫川支流)および青海川の上流である。古代には、そこから河流にのって流れ出し、日本海の海岸(富山県東部~糸魚川市)に流れついた小破片が玉(勾玉など)に加工されていた。加工は、縄文時代から行われており、現糸魚川市を中心として加工された玉は北は北海道から南は九州まで交易によって運ばれていたが、最も多いのは長野県の諏訪を中心とする地域であり、そこからさらに関東にまで運ばれていた。縄文時代には、人口の多くは東日本に集中していたのだから、糸魚川原産の翡翠が長野~北関東地域から多く発掘されるのはなんら不思議ではない。

 しかし、水田稲作の始まる弥生時代になると、翡翠の搬出先は急激に変化することになる。その多くは、北陸から近畿、中国地方(山陰、山陽)から北九州に搬送されることになり、さらに日本海を渡り「韓」半島(特に南部の加羅諸国の地)に運ばれたのである。そして、時代を先にすすめると古墳時代のある時期(特に鉄が国内で生産されるようになった5~6世紀)以降、翡翠がこれらの地域に運ばれることはなくなり、ついには翡翠の存在さえ忘れ去られるに至る。考古学的遺物としての硬玉翡翠(勾玉)が日本国内で産出されたものであることがわかるのは、太平洋戦争直前のことであった。

 このように翡翠の販路が弥生時代に東日本から西日本・韓半島に変化すること、そして古墳時代に入りその存在さえ忘れ去られることは、実に明確に翡翠が鉄素材の入手にとって、したがって日本列島の水田稲作の普及にとってきわめて大きい役割を演じたことを、明示的に示すものである。

 この様子をもう少し詳しく検討したい。水田稲作を含む農業は、人類史の中では比較的最近生まれたものであり、むしろ製造業やサービス業のほうがより古い歴史を持つことは、社会経済史を囓ったことのある人なら誰でも知っている事実である。マックス・ヴェーバーが指摘したように、人類最初の産業は、家族産業であり、そこから発展した「氏族世襲産業」(部族産業)であったであろう。その端緒は、たまたま原料が近くに存在したり、たまたまその技術を習得した人がいて、当該産業がより広い地域に広まったものである。糸魚川を中心とする玉作り産業は翡翠原石の存在が条件であり、また紀伊の国の造船業は原料となる木材の存在が条件であり、列島各地の製塩業は海岸に立地しているように多くは原材料の賦存によって条件づけられている。

 同時に玉が交易財として役割を演じるには、それを運び、それと交換に鉄素材を入手する役割を果たす人々(交易者、航海民)が登場しなければならない。彼等は、コシの国のヌナガワ郷(ほぼ現糸魚川市に相当する)から玉を調達し、主に日本海沿岸の諸港を経ながら韓半島に到達し、鉄素材を調達し、ふたたび日本海沿岸の諸港で鉄を供給し、ふたたびコシのヌナガワ郷にまで、あるいは鉄素材を必要とする東日本の各地に航海を続けたことであろう。

 もうすこし詳細に見れば、各地で入手された鉄素材は、各種の道具を加工する鍛冶工の手に渡ったであろう。そして、鍛冶工は土木や水稲耕作を行う人々に道具を供給し、見返りに食料(米など)を入手したであろう。もちろん玉作りの人々も食料などを得なければならない。したがって玉(翡翠)と鉄素材との交易が当時の基本的交易関係であったとしても、地域内分業(食料生産、手工業)がそれを補完していたはずである。さらにおそらく各地域に成立しつつあった権力(王権)が様々な生産領域の組織者として大きい役割を演じ始めていたことが考えられるが、これらの王権、水稲耕作者、玉作り、鍛冶工、交易者(航海者)が相互にどのような関係にあったかを具体的に描くことは難しい。

 しかし、交易者(航海民)が主に日本海沿岸を舞台に活動していたことは、考古学的資料だけでなく、文献的にも確認されそうである。すくなくともその痕跡は、残されているように見える。         (続く)