上越地方(旧頸城郡)の縄文と弥生 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 かりにヤチホコノ命のヌナガワヒメ求婚(一時的方婚)の物語りが何らかの史実を反映しているとしたならば、それは何時のことか?

 これについて何かを言うためには、上越の「縄文」と「弥生」について語っておくことが必要となるように思う。

 そこでこれについて、まずは常識的・通説的に言われていることを確認しておく。

 最近のDNA解析の結果を簡単に要約すると、数万年前に出アフリカをはたした新人(現生人類の共通祖先)は、ユーラシア大陸全体に広がり、5万年前には南アジア(インド)に到達し、さらにその子孫の一部が東アジアに向かい、だいたい3.5万年前には日本列島に人々が移り住み着いていたらしい。

 最初の列島に移住した住民は旧石器を使っていたので、その頃から日本の旧石器時代が始まることになる。その後、列島では縄文式土器によって特徴づけされる縄文時代と呼ばれる時期が続き、その後、さらに弥生時代が古墳時代の開始する3世紀中葉まで続く。

 ところで、ずっと昔、私がまだ若かった頃は、弥生時代は紀元前300から400年頃に始まるとされていた。ところが、近年、この絶対年代の編年が大きく変わろうとしている。それというのも、国立歴史民俗博物館(歴博)が「炭素14年代測定法」という方法を使って、弥生時代が500年以上さかのぼり、紀元前10世紀に始まっていたという「新理論」をうち出したからである。

 

 *この理論の要点は次の通り。私たちの住む空気中には極く微量ながら炭素14という同位元素が含まれている。この炭素14は、約5700年で半減し(半減期5700年)、別の原子に変質する。一方、宇宙線等の作用により、空気中では別の物質に変化したのとほぼ同じ量の炭素14が生み出される(以上核反応)。したがって空気中の炭素14の割合は時間とともに変化せず、ほぼ一定に保たれる。他方、いったん生物(動植物)や多の固形物質中(コメなど)に取り込まれた炭素14は5700年で半減するが、その内部では新しい炭素14は生まれない。したがって考古学的な遺物に含まれる炭素14の割合(の減少率)を調べれば、生物に取り込まれたのが何年前かを知ることができる。詳しくは、様々な要因を考えなければならないが、基本的な原理は以上の通りである。(詳しくは、藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』、講談社現代新書、2015年などを参照。)

 

 ともかく、この方法によれば、縄文時代は前10世紀頃まで続き、弥生時代が始まるが、弥生時代も3世紀半ばの古墳時代の開始とともに終わるという結果が導かれる。なお、土器様式の変遷などを考慮して行われた相対編年(弥生前期・中期・後期、さらに詳細な時期区分)の順序は不変だが、それぞれの時期の開始期や終始期も影響を受けることになる。

 

 ところで、以上は日本列島全体(特に最先進地域)についての話しであり、日本列島を構成するそれぞれの地域に当てはまるわけではない。もちろん、地域によって状況はまったく異なっており、もっとも先進的な北九州では、前10世紀に東アジアから水田稲作やそれに伴う大陸文化を持った人々が渡来し、弥生文化、弥生時代が始まった可能性が高い。これに対して、他の地域ではその後も縄文式の文化・生活が続いていた。

 総じて弥生式の水田稲作文化は、北九州で生まれ、そこから西に向かい、中国地方(出雲、穴門、安芸、吉備)、四国を通り、近畿に達し、さらにそこから近江、伊勢湾沿岸地域を経て、ようやく北陸(越)、東山、東海・関東に達する。

 その際、一つのきわめて興味深い問題は、渡来系弥生人と先住者・縄文人とがどのように邂逅し、関係したかという問題である。

 これは簡単な問題ではないが、しかし、これまでほぼ疑いないとされてきたのは、事の次のような展開である。

 1)西日本では、先住の縄文人はきわめて少なく(例えば日本列島全体の5分の1以下)、かつ海岸部から遠く離れていたところに住んでいた。そのため渡来系弥生人と先住の縄文人は、ある期間--例えば150年間~200年間ーー、お互いの領域を侵すことなく、棲み分けていた。そして、その後、稲作水田が一定程度に広まった時、両者の混交が生じ、渡来系弥生人と先住の縄文人の混交が起こった。この混交の動きは、稲作開墾の東への移動とともに、東に進んでいった。

  なお、人口論的な点から見ると、北九州への最初の弥生系渡来人は、水田稲作の食料生産の拡大のため、急速に人口を増やしたが、縄文系の人々の人口は停滞し、かれらが渡来弥生人と混交し、稲作を取り入れ、新しい弥生系・縄文系からなる「倭人」が誕生すると、縄文の遺伝子も増加したと想定される。したがって仮に渡来した人自身の数がかなり少なかったとしても、列島に到来した後の子孫は決して少なくはなく、その遺伝子的な要素はきわめて大きい割合に達した可能性が高い。実際、DNA解析の結果、渡来系の割合が80パーセントに達したという研究結果もある(篠田氏)。

 2)最初北九州で生じたこうした動きは、東に向かって繰り返された。例えば瀬戸内海地域では、北九州出身の渡来系弥生人や、あらたに北九州で生まれてきた「倭人」が海岸部に移住し、開墾し、稲作を開始し、やがて一定の期間ののちに山寄りに居住する先住の縄文人と混交したと想定される。もちろん、これは根拠のない想像ではなく、明治時代以降に積み重ねられてきた考古学な証拠の示すところである。

 3)ただし、この弥生文化と人々の東方への動きは、近畿を越え、伊勢湾岸(尾張)ー近江線を越える段になると、若干変化してきた。というのは、この伊勢湾(尾張)ー近江線を越えた東日本は、まさに先住の縄文系が濃密に住むまさに縄文的な地域だったからである。そこで、弥生稲作開墾の動きはひとたびこの線で停滞したが、やがて(本格的には弥生中期以降に)それを越えるに至った。

 

 おそらく東日本でも、両者のフリクションは激しいものではなかったと考えられる。というのは、縄文・弥生時代の遺跡に基づく人口史研究(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』、講談社学術出版、参照)によれば、縄文中期に日本列島の総人口が26万人に達した後、晩期には、7.5万人に減少しており、その多くは海岸から離れた山間の微高地に居住するようになっていたとされているから、先住の縄文系人と渡来系弥生人(倭人)との(少なくとも)初期の棲み分けが可能であり、フリクションをそれほど大きくしかったと思われる。両者の混交は、凄惨な戦争・殺傷という犠牲を払わずに比較的平和裏に生じたらしい。ただし、柳田国男(『山人考』など)が考えたように、弥生人と混交することをいさぎよしとしない人々が一定の割合でいたかもしれない、と思う。

 

  さて、上越(頸城郡)の状況であるが、水田稲作農耕技術をたずさえて人々が当地にやってきたのは、様々な考古学的証拠から考えて、弥生中期以降(暦年では前3世紀以降)のことであり、その開墾が本格化するのは、おそらく後期(1世紀、つまり西暦1年以降)に入ってからと思われる。したがって弥生系と縄文系の人々が混交・交雑するのもこの頃、主に弥生時代後期のことのように見える。

 実際、糸魚川の高地性集落、後生山遺跡は弥生後期中葉のものであり、上越市の吹上遺跡(弥生集落)は弥生中期にあたるが、同裏山遺跡(高地性集落)と下馬場遺跡(高地性集落)は、ともに弥生後期であり、妙高市の斐多遺跡(高地性集落)と釜蓋遺跡(県内最大とみられる巨大環濠集落*)は弥生後期のものである。また上越地区ではないが、柏崎市の環濠集落跡・西谷遺跡も弥生後期に属する。実際には、これより初期の弥生式遺物(土器など)の遺跡包含地があるかもしれず、西方の地域との交流はそれより前からあったかもしれないが、開墾が本格化したのは、中期以降、特に後期以降とみたい。

 

 このような動きを見たとき、ヌナガワヒメを縄文系に見立て、ヤチホコノ命を弥生系に見立てることも可能かもしれない。しかし、いくつかの理由から、私には、ヤチホコノ命のヌナガワヒメの求婚(一時的方婚)の物語りは弥生人と縄文人の混交の物語りとは考えられず、日本列島の西からの東に向かう水田稲作開墾の動きに従う人々(すでに混交した人々を含む)の間の一コマに見える。

 

 *妙高駅に近い釜蓋遺跡(弥生の環濠集落)は、最近の調査で新潟県内で最大の環濠集落であることがわかってきた。西日本の吉備(現岡山県)や近畿の大和に比べれば狭いとはいえ、その沖積平野面積(つまり潜在的な開拓可能性)は多数の人口を扶養することを可能としたことは間違いない。近代以前の「人口扶養経済」にとって、この条件は決定的だったように思う。