先回、Y染色体DNA解析の示す日本列島への人の移住について書いたが、mtDNA解析ではどうなのだろうか?
まず縄文時代人骨から得られた試料の解析結果(mtDNAハプログループの頻度)を下に示す。
見られるように、東北、北海道、関東の三地域における頻度にはかなりの相違が見られるが、全体では、N9b、D4、M10、M7a、G1、M8a、B、A の順になっている。(なお、前に書いたように、西日本では縄文人が少なかったこともあり、また酸性土のためもあってか、試料を提供できるような縄文人骨はほとんど発見されいていない。)
ここで気になるのは、次の二つである。
1、Y染色体DNAの場合には、D2 という特徴的なサブハプログループが存在し、かつそれに近いグループは現在チベット高原に住む人々の中にかなりの割合で発見されたが、同様なことはmtDNAの場合にも見られるであろうか?
2、それはとは別に、東アジアの周辺地域に近いハプログループを持つ人々がいるだろうか?
順番に確認しておきたい。
縄文人における mtDNA ハプログループの頻度
現在のチベット高原における mtDNA HGの頻度
現在の東アジアおよびシベリアにおけるmtDNA HGの頻度
気になるチベットから見ておこう。
チベットで縄文時代人と共通して見られる比較的頻度のハプログループは、D4とAである。このうち、 Aについては、サブハプログループが分からないので、措いておくが、D4が注目される。D4は9.5パーセント、D4j1が2.3パーセントとなっている。縄文時代人はD4hであり、近い関係のあったことが明らかである。しかし、すぐ後で見るように、D4の現在の中心地は、日本列島から朝鮮半島、中国北部にかけての地域であり、そこで、D4に示される人々(女性)の動きについては、さらに詳しく見なければならない。
次に特徴的なことは、A、N9b、M7a、M8b、G*などが、またD4も、北シベリア、ウデゲイ、ネギダール、カムチャトカ、オホーツクなど北方の諸民族、特にツングース系の諸民族の間にかなりの頻度で見られることである。特にN1bとM7aは、縄文時代人を代表する(女性の)ハプログループであり、それが北アジアに多く見られることは、注目される点である。これは、古い時代(縄文時代またはそれ以前)に北方ルートで日本列島に移住したか、あるいは北方に移動する集団の中に日本列島に移住した人々がいたことを推測させる。
最後に、中国北部、長江流域、中国南部にかけて、D4、A、M10 などがかなり高い頻度で見られる。
このうち、特に注目されるのは、D4である。すぐ上で述べたように、D4は縄文人にも見られ、またかなり古い時代に日本のD4集団と分かれたと思われるチベット集団にも見られる。そこで、一万年以上前の古い時代に東南アジアに達したD4集団の一部はチベット方面に向かい、一部はさらに東側に向かい、その一部は日本に到達したとも考えられる。
しかし、現代のmtDNAのハプログループ頻度を見ると、一番高い頻度を示すのは、日本列島であり、その頻度は本土日本で36パーセントに達する。つまりD4は、現代日本人を代表するハプログループとなっているのである。
一方日本列島の周辺を見ると、D4が高い頻度を示すのは、韓国25.9パーセント、中国北部.23.2パーセント、長江流域(華中)19.8パーセントとなっているのに対して、中国南部7.6パーセント、台湾1.3パーセントとかなり低くなっている。
ここから想定されるのは、次のような日本列島におけるD4の二重構造という事態である。すなわち、現在の日本人(女性)の持つD4のうち、一部は縄文時代人(女性)に由来するが、かなりの部分は弥生時代に入ってから、華中(長江=揚子江流域)や山東半島から朝鮮半島を経て、さらに日本列島に到来した人々(女性)に由来するという構造である。
このように考えると、かなりの謎は氷解する。つまり、やはり女性も、完全に男性と同じというわけではないとしても、やはりほぼ同様な移動を経験してきたということになる。男性について述べたのとほぼ同じことを繰り返すことになるが、すでに縄文時代またはその前に南アジア(インド)を出発し、東に向かった集団(複数のハプログループに示される)の一部は1万5000年ほど前に日本列島に到着しており、その近しい集団はチベットと北アジアに暮らしている。一方、それとは別のD4集団がいまから3000年ほど前の時代から弥生時代にかけて日本列島に渡来した。この集団の移動前の中心的な故郷は、水田稲作の発祥地だったことが明らかにされている華中(長江流域)から黄河の南側、山東半島にかけての地域である。ここは、中国史にいう春秋戦国時代には、「東夷」がいたとされる地域であり、その後、斉、呉、越、楚などの国(諸侯)があった場所である。もちろん、この地域から人々が東側、つまり朝鮮半島に渡るためには2つの方法が考えられる。その一つは陸伝いで移動することであり、そのためには「燕」の国を通過しなければならない。もう一つは朝鮮半島を対岸に望む山東半島から海を渡ることである。
ここで、注意しなければならないのは、これらの地域から朝鮮半島を経由して日本列島に移動したとしても、朝鮮半島が単なる経由地だったのではなく、おそらく北方の遊牧ツングース系と見られる扶余族やその支脈をなす高句麗族、濊貊族と混合し、あたらしい水田稲作にもとづく民族形成が行われ、人口が急速に増加したのちに、その一部が日本列島に移動したと考えられることである。よく知られているように、紀元前後の頃になると、朝鮮半島の南部には、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)が現れ、さらに3世紀頃になると馬韓の一国、伯齊国から西の百済が、辰韓の斯盧国から東の新羅が現れ、この両国に挟まれた地域が伽耶・加羅と呼ばれるようになる。日本に人々が移住する際の出発地となったのが、この伽耶・加羅の諸国だった可能性が高い。おそらく朝鮮半島でも、北から南への人々の移動があったのだろう。紀元前後頃には朝鮮半島の人口はすでに200万人に達しており、一方、その倍以上の面積を持ち、水田稲作の適地だった日本には、その10分の1~2ほどの人口しかいなかった。
さて、こうしたDNA解析から導きだされる仮説は、他の領域の研究結果と齟齬をきたしていないだろうか?
これが次の検証するべき事項となる。