日本の古代史 渡来人の故郷と別離の理由(1) | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 それにしても、北東アジアおよび朝鮮半島から日本列島への人口移動を生じさせた事情とはどのようなものだったのだろうか?

 

  現在最も説得的な理由と思われるのは、地球規模の気候変動や戦争、政治的理由などではなかったかと思われる。

 このうち、まず気候変動について見ておこう。

 人間の主要な経済活動が食料を生産することにあった「人口扶養経済」(Wilhelm Abel, AgrarKrise und AgrarKonjunktur, 邦訳『農業恐慌と景気循環ー中世中期以来の中央農業及び人口扶養経済の歴史』、寺尾誠訳、未来社、1972年)では、食料生産を左右するのは生態系の変動であり、この気候変動が人口変動と人々の地域的移動の大きな要因であったことは、特に近年、過去の地球気候史が科学的方法で再現されるようになるととももに主張されるようになっている。

 ヨーロッパでは、ヴォルフガング・ベーリンガーの『気候の文化史』(丸善プラネット,2014年)が欧州 におけるこの問題を包括的に取り扱っており、また日本では安田喜憲氏(『気候と文明の盛衰』朝倉書店、1990年、『気候が文明を変える』、岩波科学ライ ブラリー、1993年、『気候変動の文明史』、NTT出版、2004年)が先駆的にこの問題に取り組んでいる。

 これらの研究によれば、日本の縄文時代晩期に相当する3200年ほど前(紀元前1000年頃)に気候の寒冷化が始まり、3000年前頃には著しく寒冷化し、2400年ほど前まで続いたとされている。またこの時期は、ヨーロッパでも東アジアでも大きい社会的変化が生じている。その主なものは、次の通りである。

 ・ヒッタイト帝国の崩壊

 ・ヨーロッパ:ミケーネ文明の崩壊、ドーリア人やフリギア人の南下

 ・インド・ヨーロッパ語族系民族の西アジアからの移動、カラクス文化侵略

 ・カラクス文化の人々の南下、中国大陸への侵入

 ・中国:北方の商(殷)王朝の崩壊、西方からの周の成立、春秋戦国の動乱期

 

 ここに見られる人々の「南下」の移動は、その後も、気候寒冷化とともにしばしば生じた動きである。

 これまでの研究をまとめると、おそらく紀元前400年~紀元100年頃の間は気候は温暖であった。ところが紀元後100年から中国の気象災害が急増する。北方からの異民族の侵入が始まり、後漢の地方郡県体制は根底から揺らぎはじめた。

  この時代の中国社会の危機がいかに激しかったかは、人口の推移にはっきりとしめされている。前漢と後漢の境をなす紀元0年頃の中国の人口は、ほぼ 6千万人に達していた。これは当時の日本列島の人口(20~30万人ほどか?)の200~300倍の規模である。しかも、184年の「黄巾の乱」後の半世紀ほどの間に中国(三国)の人口は500万人以下に激減していたといわれるほどである。これは中国史の専門家、岡田英弘氏が述べるように「古い漢民族の絶滅」と言うほどの激しい変動である。この時期およびこれに続く時期(三国、五胡十六国、南北朝時代)はまた、北方から流入してきた北アジア系の諸民族が「新しい漢族」の主流 となり、また華中と華南が開発され、中国の人口の中心が南方へ移動した時期である。

 歴史上、激しい社会変動と人々の大規模な移動の見られ た地球規模の寒冷化の時期は、その後もあり、その最も最近の例は、中世温暖化が終了したのちの「小氷期」の大社会変動である。この時期に、ヨーロッパでは、まず西欧において、北方(イングランド、北欧スカンジナビア諸国)における村落放棄と南下移動が生じ(Abel およびベーリンガーの前著参照)、また東欧=ロシアでも動乱、北東部の都市と村落の「荒廃」、人口の南方=ステップ地域への大規模流出が生じている(J. Kulischer, Russische Wirtsschaftsgeschite, Jena, 1925)。また中国でも、明末・清初の大動乱期に調査人口の激しい減少が生じている。ただし、これは必ずしも中国全体における実際の人口減少ではなく、 北方では「人民の逃亡」が多く、南方(江南)では調査の脱漏が多かったことによるものと推測されている(加藤繁『支那経済史概説』弘文堂書房、1944 年)。

 

 本題に戻ろう。東アジアにおける気候の寒冷化は、縄文時代後期・晩期の日本列島でも激しい人口減少をもたらしていた。縄文中期後半にピークに達していた集落数、住居数、したがって人口は後期に急激に減少していた。(例えば『縄文時代ガイドブック』新泉社、 2013年、38-39ページの八ヶ岳麓の事例を参照。)こうした減少は特に東北日本で激しかったようであり、その結果、日本列島における人口の重心は温 暖な西日本にしだいに移動していた。しかし、それでもまだ依然として日本列島の人口は圧倒的に東日本に居住しており、西日本はいわば人口分布の希薄地帯で あった。しかも、寒冷化は縄文海退を通じて、陸地面積、すなわち水稲耕作可能な沖積平野を広げていた。

 日本列島、とりわけ西日本に北東アジアから多くの人々が移住してきたのは、このような環境の中においてであったと考えられる。

  片岡宏二氏の『弥生時代 渡来人から倭人社会へ』(雄山閣、2006年)は、こうした渡来人の足跡(九州から西日本)を追い、また先住者(縄文系)との関係を考察しているが、縄文時代に人口がきわめて希薄だった西日本では、渡来系弥生人による水田開墾は比較的容易だったと思われる。しかも、西日本は、日本の中でも温暖な気候の地域であった。東アジア全体における北から南への人口移動があったと考えることは、きわめて合理的な推論であろう。

 ただし、弥生時代のかなり早い時期に、水稲稲作のための開墾の流れが現在の滋賀~奈良~三重を結ぶ線まで進んだのち、さらに東方の福井~岐阜~愛知をむすぶ線より以東に及ぶと事情は急速に変化せざるを得なかった。そこには、多くの農業適地(濃尾平野、富山 平野、信州盆地、新潟平野、関東平野など)が広がっていたが、より多くの先住者が居住しており、彼らとの関係が大きな問題となったからである。また気候や生態系も福井~岐阜~愛知線の以東で大きく異なっていた。弥生式農耕文化はそこで足踏みをせざるをえなかった。(これについては『愛知県史』等を参照。)