上越市(旧直江津市)の五智にある国分寺。天平九年(737年)、聖武天皇の勅願により諸国に建てられた国分寺の一つです。
その後、永禄五年(1562年)七月に上杉謙信の支援を得て再興され、現在の地に移されたとされています。旧記によれば、再興時の供養には、導師として高野山の無量光院の清胤法印が参加し、以前から清胤に師事していた上杉輝虎(謙信、当時33歳)も参詣しました。
五智国分寺をめぐって現在でも不明なのは、天平年間に建てられた越後国分寺の元の地がどこかです。諸説があるようですが、私が知っているのは、新潟大学の金子宅男氏の説、つまり日本海に面している岩殿山にあったのではないかというものです。その理由は次の通りです。
・ 現在の国分寺が岩殿山にある大日堂を奥の院としているが、通常、奥の院は創建の地を指している。
・ 長享二年(1488年)にこの地を旅した僧、万里集九の『梅花無尽蔵』(永正3年、1506年に完成か)の詩に「宇堂如山冠海崖」という一節があり、切り立った山、断崖を想像させる。
・ 聖光国師日記の弘安8年(1285年)に「登二越後五智山一」とあり、五智の山に登ったと書かれている。
・ 岩殿山に壮大な雛壇状の山岳寺院跡がある。
私にとってもうひとつ分からないのは、上杉謙信の頃には五智国分寺が真言宗寺院だったのに、その後天台宗にかわった経緯です。永禄五年の再興に上杉謙信がかかわっており、高野山無量光院から清胤法印が導師として参加していることからしても、この頃、真言宗だったことは間違いありません。天台宗にかわったのは、上杉謙信がなくなり、景勝が会津に移封したあとのことだったのでしょうか。
以下に五智国分寺に関する旧記のいくつかを載せておきます。
丸山元純『越後名寄』(宝暦6年、1756年)
号安国山人皇四十五代聖武皇帝之勅願天平九年丑年毎州建国分寺
本尊丈六 五知如来也
永禄五年壬戊七月再興導師高野山無量光院清胤法印勅使勧修寺中納言晴秀卿也 上杉輝虎参詣時年三十三歳
元禄元戊辰年三月塔雷大に焼失
同二巳年十月二日雷火如来堂仏像経巻不残焼失
同三庚午年勧進法印快雄寺中親鸞上人影像有
小田島允武『越後野志』(出版年不詳)
天平九年丁丑詔建国分寺於頸城郡国府名金光明寺 續日本紀
豊田蘭治『越後名所誌』(出版年不詳)
華蔵院国分寺 国分寺村に有り 寺領二百石本尊五智如来中尊大日如来 東阿閻如来一名宝憧仏一名華閻仏南宝生如来 西阿弥陀如来北不空成就如来聖武帝勅願寺にて七堂伽藍也 本堂は三間に拾七間 東向 享保工匠建之五仏は布志国の作也 其後星霜つもりて頽はい成しかは永禄五年七月上杉輝虎五智如来堂再興し供養導師は高野山無量光院清胤法師勅使は勧修寺中納言晴秀也 然るに元禄二年十一月二日雷火の為に仏像堂塔悉く回體す 只残すは二王門也 二王行基作 あり 復其後十二間四面の本堂を建て新仏を作り古仏の灰を腹中に納て再興ありし処に又七月弐三日坂東より火起て本堂を始三重塔 地の間四間 四面高さ十六間壱尺九拾寸也 二王門 東西五間南北三間半也 ことごとく回體す 残る処は一切経蔵本堂は薬師如来御頭 長三尺横壱尺八寸也 宝生如来手左右不動毘沙門也 今は唯礎のみ存す 又軍家の御多牌有 親鸞堂境内に有り 親鸞鏡井 境内有 親鸞配所 竹ノ内村大場村の丸山といふ処に標石を置て国分寺と並べり 人皇八十三代土御門院御宇承元丁卯年三月十六日親鸞流罪京都出罪名藤井善信俗衣□□色黒筋直衣追捕検非違府生小槻行連送使右行門府生秋兼同月弐拾八日越後国頚城郡郡司萩原民ア少輔年累許着すと云々
神保泰和『北越略風土記』(1918年)聖武天皇天平九年丁丑勅願にて毎州国分寺を建て玉ふ 永禄五年壬戊七月二十五日五智如来再興供 導師は高野山無量光院清胤法印 勅使勧修寺中納言晴季卿也 下向ありて華蔵院を以て御旅館とせらる上杉輝虎参詣し玉ふ 元禄元年戊辰三月三重塔雷火同二年己巳十月二日雷火にて如来堂仏像経巻残らず焼失す其後再建ありしが又々本堂五智如来共焼失せり最初草創の堂は飛騨工匠の作る所と云
元正天皇養老五年辛酉勅命に依り諸国に国分尼寺を建つるを命ず
六釈迦像之を置く
聖武天皇天平十一年己卯諸国始めて国分尼寺を立つ
光明天皇暦応二年已卯毎国安国寺を立つ
延喜式云、凡諸国国分二寺僧尼見数に依り毎寺正月八日より十四日迄読金光明最勝王経を轉ず 其施物当所正税を用ふ 又云う其布施三宝縁三十斤僧尼各絶一足綿一屯、布二端、定斐沙□尼各布三端倶供養、寺物を用ふ
和漢三才絵図に云う 聖武天皇勅願寺方十三間東向飛騨工匠之を建つ 其五仏布志国之を作る 而して雷大の為に堂及仏像回禄し新仏を作る 古仏の灰を体中に納む 唯二王門恙無し 其二王門行基作也
元亨釈書に云う 十二巻資治表三曰く、人皇四十五代聖武天皇天平九年三月毎州に丈六釈迦及菩薩像を造るを詔し、併に大般若経一部六百巻を写す 是国分寺之権與也 又云う 天平十三年正月封戸を国分寺に領す
先日掲載した居多神社の改訂版を載せます。(写真版から作成したので、若干誤読がありました。)
上の金子説が正しいとすると、国分寺の旧跡のあった岩殿山は絵図の右奥郷津の近くになります。四至絵図では、国分寺が現在の地に描かれているので、絵図は1562年以降の作成となるようです。
詳しくは、金子拓男「「居多神社四至絵図」の製作年代について」(『新潟史学』第31号、1993年10月)参照。