頚城郡の保と庄(荘)を調べました。
古代から中世にかけての社会経済史を調べるためには、やはり保と庄の具体的な姿を知らなければと思ったしだいです。
古代には、日本でも国土・人々は国家の「おおみたから」(所有物)という思想(王土思想)が支配していて、その具体的な現れが公地公民、班田収受、戸籍などの制だったと考えられていますが、この観念や制度はその後も長く続きながら、しだいに変質します。
西暦723年の三世一身法を経て西暦743の墾田永代私有法によって、公地(王土)を開墾した人は、自身だけでなく永代にわたって開墾地を私財とすることができることになりました。ただし、私財といっても、あくまで公地ですから、国家からの様々な義務(納税などの対国家奉仕義務)をまぬがれているわけではありません。
また墾田といっても、実際に耕作している庶民(田賭)が自分の力で僅かな土地=荒蕪地を開墾したような場合と、東大寺のような有力者が庄官を派遣して大規模に開墾したような場合があり、両者は区別されます。前者を治田と呼び、後者の墾田と言い分けることが行われていたようです。
また同じ庄という名称でも、東大寺の荘園のように自ら開墾した自墾地系荘園ではなく、在地の有力な庄官が自分で開墾した墾田を中央の有力寺社・貴族・公家に寄進して成立した寄進地系荘園も後に現れてきます。寄進が行われたのは、「不輸不入の権」(納税義務の免除、国衙からの介入の免除)を獲得した大寺社・貴族の権利を利用するためであり、そのために庄官は一定の生産物を寄進先に治めなければなりませんでした。
一方、国衙(国司の下の在地官庁)や郡司の統治下にあった保は、庄と異なって、公領だったので、平安時代から鎌倉時代にかけての土地制度は、荘園公領制と呼ばれています。
さて、頚城郡では、保と庄はどうなっていたでしょか。頚城郡の場合、あまり史料が残っていないようですが、それでも『越佐史料』、『地理志料』、東大史料編纂所のデジタルデータベースなどを利用して、次のような所在がわかりました。
庄
天暦四年の東大寺封戸目録
石井荘、田六五町
吉田荘、田二十町
真沼田荘、田二十六町
東大寺天平勝宝四年ノ文書
頚城郡膽君郷五十戸充封戸
西大寺資財帳
頚城郡津村の荘図一巻(和名抄の都宇郷か)
法華寺の寺領
岡田ノ荘(高津郷)
鳥羽ノ十一面堂領
佐美荘(佐美郷)
新井荘(大崎荘)(荒木郷)
沼河保(沼川郷)
青木ノ保(栗原郷)
田井ノ保(板倉郷)
荒蒔保(物部郷)
末野ノ新保(夷守郷)
また治田を持つ田賭や、保内で耕作する田賭は、律令戸籍の「戸」から次第に「名」へと姿を変え、その中から後の在地武士が形成される源となるわけですが、これらの史料が頚城郡に関して残されているかわかりません。これから折節時間があったら調べたいと思います。
寄進地系荘園の場合、地元有力者=庄官が中央有力寺社に寄進するわけですから、地方有力者がいたしるしになります。
上の庄(荘)のうち、東大寺の石井荘、吉田荘、真沼田荘などは、他地域の事例から推して、自墾地系荘園だったと思われますが、寄進地系荘園があったかどうかは、明らかにできません。
保