高志国の奴奈川姫 伝承と足跡 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 亀井千歩子著『奴奈川姫とヒスイの古代史』(国書刊行会、1977年)を読みました。

 上越地方を中心に各地を歩き、取材して書かれた本であり、名著と思いました。特に各地に伝わる伝承を紹介している部分が興味を引きます。

 同書を読んでいて、古事記、風土記などの史料や各地に伝わる奴奈川姫に関する伝承をまとめるとどのようなことになるのかと考えて、一覧表を作成してみました。一覧表を作成するにあたっては、亀井氏の著書を中心として、その他に古事記、出雲風土記、大日本地名辞書、神社の由緒書、県郡市町村史などで補いました。ブログでは紙面の関係もあり、出典は略します。また相互に矛盾する伝承があるように思いますが、目をつむることにします。

 奴奈川姫(沼河姫、布川姫など)の伝承・足跡は次のようにまとめられます。

 

 1.出自

 祖先(祖父、父)はオキツクシイノミコト、ヘツクシイノミコトという。(奴奈川姫は、黒姫とも称す。また黒姫は、奴奈川姫の母の名前ともいう。黒はクラの転であり、クラとは本来山言葉で崖や急斜面を指す。したがって黒姫とは本来急な山の麓に住む姫であろうと推測される。)

 糸魚川市平牛経ヶ峯には、沼河一族が居住していたという。

 黒姫山は、青海町、能生町(大沢岳、東の黒姫山ともいう)、中越地方、長野県にあり、それぞれ奴奈川姫の出自と関係づけられている。


 2.出生

 能生町字島道に岩井口というところがあり、その山中の岩屋・洞窟が奴奈川姫の産所という。

 同地を流れる島道川は、能生川の支流であるが、古くは布川と呼ばれていた。(その後、転じてのう川と呼ばれるようになった。)


 3.居住

 奴奈川姫の居住した場所としては、青海町黒姫山の福来之口(山中の洞中)、糸魚川市平牛稚児ヶ池(宮居跡)、能生町柵口権現岳の胎内というところの岩屋、糸魚川市根知谷御所(宮居跡)が伝えられている。


 4.出雲の大国主命との婚姻

 ここに出雲の大国主命(八矛神命)が登場し、奴奈川姫に求婚することになる。

 まず大国主命らの出雲族が上越市の居多ヶ浜に上陸し、身能輪山に宮居を築き、活動の拠点とする。

 しかし、大国主命に対して地元勢力からの抵抗がある。一つの伝承では、奴奈川姫の夫(松本の豪族)が反対し、福来口で大国主命と争い、破れる。別の伝承では、根知谷別所の土地神が大国主命に争論をいどむが、やはり破れる。もうひとつの伝承では、能生谷の江星山に住んでいた夜星武(やぼしたける)が大国主命と争い、破れる。

 こうして奴奈川姫は、大国主命と能生谷の大沢岳(高志の峯、権現岳)で結婚したという(能生町大沢岳は前述した島道の付近)。

 

 5.健御名方命の誕生

 結婚した奴奈川姫は、子の健御名方命を出産したが、その場所は上越市の身能輪山とも岩殿山ともいい、あるいは長野県小谷村の戸土とも大網(ダルマ山)ともいう。戸土では、池からくんだ水を産湯としたと言われている。


 6.大国主命または出雲族からの逃亡

 ところが、幸せに暮らしていたはずの奴奈川姫が何故かあちころを逃げることになる。

 伝承では奴奈川姫と大国主命は出雲に向かっていたが、奴奈川姫が能登から故郷の沼川郷にむかって逃げ、これを大国主命(出雲族)が追いかける。

 まず奴奈川姫は福来口に逃げ、そこから(頚城)大野に来て、そこで鐘を埋める。次に根知谷に向かい、さらに平牛に向かう(青海町、糸魚川市)。さらに奴奈川姫は能生町の柵口、権現岳の胎内というところにまで逃げたという。別の伝承では、奴奈川姫は津南から松之山村の豊原峠にまで逃げてきたとされている(松之山には松苧神社があり、奴奈川姫が祀られている)。


 7.フィナーレ

 奴奈川姫のその後について伝承は一定していない。

 一つの伝承では、奴奈川姫は、長野県小谷村の布ヶ淵とも北城村の姫淵ともいうが、池で入水したとされている。中土村の奉納では、奴奈川姫の墓のしるしがあるという。また糸魚川市平牛の稚児ヶ池で奴奈川姫が入水したという伝承も伝えられている。

 別の伝承では、奴奈川姫は、国譲りに反対して諏訪に逃亡した健御名方命のいる諏訪地方に行ったとされている(諏訪市、茅野市)。奴奈川姫が健御名方命と対面したという伝承や訪問したという伝承も長野県南小谷村や北城村にはある。さらに別の伝承では、奴奈川姫は身能輪山で長寿をまっとうしたとされている(上越市)。

 

 これらの伝承はどれほど史実を反映しているのでしょうか?

 私個人としては、伝承がまったくのフィクションとは考えられず、かなりの程度史実を反映しているのではないかと考えています。

 ただし、次のような点を考慮しなければならないとも思います。

 1.上越地方を含む高志国と出雲国との交流は、考古学の領域でも史実と認められています。したがって久比岐地方(沼川郷)の有力首長の娘と出雲国の有力首長の婚姻(複数)は実際に行われていたと考えるべきでしょう。

 2.伝承の中には、古事記や風土記など有名な史料の影響を受けてあとから付加されたものもありうると考えられます。上には紹介しませんでしたが、例えば黒姫=奴奈川姫は本当は美しい娘ではなく、大国主命にぞんざいに扱われて逃げ出してきたという伝承があります。これなどは、黒姫というイメージから後世の人が付会したものという他ありません。

 3.上越地方と出雲国の交流は、縄文時代から弥生時代・古墳時代にかけてのことですが、そこで稲作農業の普及(土地開墾の進展)という時代の流れの文脈中で理解しなければならないでしょう。

 縄文時代には、上越を含む東国が人口の密集地でした。しかし、弥生時代になり、北九州から始まった稲作農業があっという間に本州全域に広まります。紀元前200年には青森県でも稲作が行われていました。

 ただし、土地が開墾され、人口が増加してくる速度はそれほど速くありません。九州から山陰・山陽へ、そこから丹波地方へ、北陸地方へと開墾・人口増加の波がゆっくりではあれ着実に押し寄せてきます。おそらく縄文時代には、ヒスイ文化を持つ上越地方は先進地域だったと思われます。その中でもヒスイの原石の採掘される青海川や小滝川あたりは上越の中心地だったかもしれません。実際、青海や糸魚川市には縄文時代の貴重な遺跡(長者ケ原遺跡など)があります。しかし、弥生時代になると、上越地方でも、ヒスイ文化の中心地ではなく、むしろ開墾に適した平野部を持つ地域(頚城平野、高田平野)が中心地となります。その意味で、大国主命=出雲族が上陸し、根拠地を築いたのが上越市の居多ヶ浜、身能輪山だったのは、象徴的な出来事と言えます。

 弥生時代以降の上越地方に限って言えば、文化はまず西(出雲)から直江津あたり(頚城平野)に伝わり、そこから西浜7谷に伝わってきたという考えになります。

 奴奈川姫の物語を考えるとき、縄文時代から弥生時代・古墳時代への移り変わりの中に位置づけることが必要になるのではないでしょうか?