相馬御風の手紙 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 今日は、実家に保存されていた相馬御風の手紙を載せます。

 相馬御風は、1883年(明治16年)生まれ、糸魚川町(現糸魚川市)大町出身の文学者で北原白秋、野口雨情、三木露風などと同時代の人。野口・三木とともに文学運動を行っており、1911年(明治44年)には早稲田大学の講師となりました。多くの校歌を作詞しており、早稲田大学の校歌「都の西北」も彼の作詞になります。

 しかし、なぜかは知りませんが、1916年(大正4年)に同大学の教職を辞し、糸魚川に帰郷しました。糸魚川に隠棲後は良寛の研究などを行っています。

 手紙は、1921年(大正9年)4月5日付けで、私の曽祖父、佐藤由二郎宛てです。

 文面中の「一昨日は・・・ろくな話も出来ざるに多大の御芳情にあずかり」、「青年会員諸氏に対し候ては何とも感激のかぎりに存申」云々という箇所から推測して、曽祖父が御風に青年会主催の講演をしてもらったのち、御風が糸魚川町に戻ってから礼状として書いたもののようです。

 その2年前の1917年(大正7年)に御風は『大愚良寛』を出版しています。本の売れ行きもよく、当時、良寛が広く世に知られ始めていたので、おそらく御風にはその関係の話をしてもらったものと推測されます。


 大町にある御風の生家はそのまま保存されていて、見学することができます。昔、糸魚川高校に通っていたころ、冬季間だけ御風の生家の隣の家に下宿していました。その時は家の中に入ったことはなかったのですが、最近行ってみました。管理人さんは通りをはさんで向かい側に住まわれています。またその隣に月徳飯店という美味しい中華料理店があります。


 御風の書に戻りますが、、封書に記された住所がただ単に「糸魚川町 相馬御風」となっているところに昔のおおらかさが感じられます。



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