I am GOD’S CHILD(私は神の子供)

この腐敗した世界に落とされた

How do I live on such a field?

(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)

こんなもののために生まれたんじゃない


━━『月光』鬼束ちひろ


 西洋のこども。鬼の娘は「私は神の子供、この腐敗した世界に落とされた」と歌い始めます。英語のエンペラーを意訳すれば「覇者」。英語のキングを意訳すれば「天王」。覇は王より下です。茨の天王キリストは「三と七は聖数」の伝統に基づきヨルダン川で洗礼し、「天国は童子のような人のもの」「人の子の血肉を呑み食いせよ(聖体拝領)」とおっしゃりました。聖体拝領(コミュニオン)は英語コミュニケーションの起源です。鬼の茨木童子は「三七日(3×7=21日)」宇治川で洗礼した橋姫と同一視されます。奇妙なことに、宇治の橋姫は天下万民を清める女神、『大祓』のセオリツ姫とも同一視されます。心の清らかな日本人の目には、茨木童子が「天下万民を清める女神の化身」に映ります。ヨルダン川で洗礼した聖キリストから見れば「宇治川で洗礼した茨木童子」は天国の子です。腐敗した世間の住人、桃太郎や渡辺綱や炭治郎から見れば、彼女は「斬り殺すべき悪い鬼の子」でしょう。私は鬼の子が天国の子だと信じています。




The Emperor’s New Clothes


 インドのこども。インドの「童子」は「梵天(ブラフマン)」の化身。梵天の下が帝釈天で、帝釈天の下が四天王。日本初の武家法「御成敗式目」は「梵天、帝釈、四天王」の順に名前を挙げ、平将門に天皇の位を授けた「八幡大菩薩、天満大自在天神」にも誓う厳粛な法です。なぜかこの法は神仏から天皇家のヒノカミ、太陽神アマテラスを排除していました。古い注釈によれば「アマテラスは虚言をおっしゃる神で、オオナムチノカミのみずほの国(葦原中つ国、出雲)を乗っ取ったから武家法から排除されている」と。やっぱりヒノカミは嘘つきなんですね。本当の黒魔術は、雷や火を出すことではなく、偽物の理で神仏や英雄を物語り、国家や文化レベルでデタラメを広めること。たとえば宇宙に陰陽五行の理は存在しないため、西洋人は「太陽と陰の月」「火水木金土の星」の名前を使いません。日輪の国エジプトでは、日輪の化身ファラオの側に「悪い魔術師」がいました。太陽の国ジャパンでも、総理大臣から漫画家まで「太陽神でウソをつく悪い魔術師」がいっぱい。世界でキングより格下のエンペラーを使うのは日本だけです。日本では悪い魔術師が「天皇は世界唯一のエンペラー、すごい」とウソをつきます。『はだかの王様』は、英語だと『The Emperor’s New Clothes』。世界唯一のエンペラー国では、駄目な大人たちが「愚か者には見えない斬新な服が見える」とウソをつきます。でも、「こども」は「あのおじさん裸だよ」と言ってしまいます。




ねぶた祭りの牛頭天王


 日本のこども。江戸時代、「テンノウ」と言えば牛頭天王のことでした。牛頭天王は「五節句」━━正月、ひな祭り、こどもの日、七夕、重陽(陽が行き過ぎて害になったのを祓う日)━━を司る「祇園」の神仏。牛頭天王はインドや中華の出自なのにインドや中華に名前がなく、日本神話にも登場しません。その上、牛頭天王のお話では、人物名が西洋人のように「名前・苗字」です牛頭天王の妻は「第三竜王の第三女(竜宮城の乙姫)」、二人の子供は「八王子」です。京都の祇園や東京の八王子は牛頭天王に由来します。乙姫の父は伊吹大明神、ヤマタノオロチで、その子である伊吹童子は「酒呑童子」の別名です。つまり酒呑童子は「草薙剣」の正統後継者で、乙姫さまの背子(兄弟)で、八王子のおじという側面があります。キリストは三と七を聖数とし、洗礼でが下り、漁師として奇跡を起こしました。牛頭天王は宇治の橋姫のように三と七を聖数とし、「七歳」で「頭が三尺で、角が三尺」で、と会話し、漁師のように海産物を取ります。牛頭天王は「鬼の大王」とも言われ、五節句の飲食物は「鬼の血肉」とされました。正月は「三が日」で「三段の鏡餅」を飾り、「三枚重ねの酒器」で「お屠蘇」を呑みます。ヘブライ人の天王イエスはられてから三が日りました。つまり牛頭天王は天王キリスト。五節句はイースター。酒呑童子は草薙剣を所有すべきクリスチャンでした





辛亥革命(双十革命)


鬼神之徳、其盛矣乎(キシンのトクたる、それさかんなるかな)。


━━『中庸』


 天のこども。天皇制は悪ですが「愚か者には見えない服」と同じ。悪は廃止する前から存在しません。天皇制の廃止は、存在する伝統を無くすのではなく、無を無と認めること。西洋では昔から「善は存在する、悪は存在しない、智慧は天地以前から有った」と言います。西洋の「天」は皇や帝の神話伝説が存在しないため、西洋の「天下」に皇帝や教皇も存在しません宮本武蔵は、八百万の神々がいない「十月十日」から『五輪書』を書き始め、空、善あり、悪なし。智は有なり」で締めました。中華の皇帝は、「十月十日」から始まった辛亥革命(双十革命)で終わりました。天が「天下に天子なし」と認め、羿の残した「十番目の日」を天から落としたのです。そして、儒教の『中庸』では「鬼神の徳、それ盛んなるかな」と鬼神を称えます。儒教道徳の「鬼」は【祭るべき祖霊】のこと。本来の「天子」の必須条件は「徳」と「姓」があること。歴代天皇は「徳」と「姓」がないため、誰一人として「天子」ではありませんかつて「日出ずる処の天子」は礼儀を知る大隋に従い、礼儀を知らない自国の「天と日の悪習」を無くしました。天も日も改められます。中華は「鬼門」が存在せず、鬼退治の根拠である「陰陽道と陰陽師」も存在せず、日本神話の根拠となる「陰陽五行説」の用語も存在しません。と言うより、宇宙に陰陽の理は存在しません。陽のイザナギや太陽のアマテラスも存在しません。三種の神器は剣と鏡が存在しないため、即位式でもフタを開けません。立憲君主制は総投票が必須です。しかし、日本国憲法は国民投票なしに発布されたため、無効です。正式に言えば、天皇は一私人今日、天皇と令和は存在しません。天皇の根拠が何一つ存在しないなら、天皇がいることにはならないのです。信じるべきは悪の天子ではなく、十字架と天国の子、鬼なのです。