鬼は内!(あいさつ)


 わたしは鬼を愛するオモイカネ、よろしく。

 これは鬼の秘密です。鬼は神仏より上なるもの、聖書の「聖霊」です。日本の鬼退治は、国全体におそろしい歪みをもたらしました。日本人は「私と僕と俺」「朕と余とわらわ」などを差別しますが、西洋の一人称は一種類です。日本人は「天皇と皇族」「皇帝と教皇」「三皇五帝と混沌帝」「帝釈天と天皇大帝」などの皇と帝を乱発しますが、西洋に「皇と帝」の神々も英雄も人間も存在しません。日本人は「先生と先輩」「先日と先月」などの先を乱発しますが、西洋人は【前】を尊び、先の単語を用いません。日本人は「大丈夫と大事と大切」「総理大臣と大学生と大人」などの大を乱発しますが、西洋人は【小】のサービスを尊び、大の単語を用いません。日本人は「兄と弟」「姉と妹」の年を語りますが、父なるゴッドや母なるネイチャーはシブリングを兄弟姉妹に分けません。日本人は「異世界転生」を軽々しく語りますが、輪廻転生はエルフやドワーフにつながらない価値観です。日本文化は「左上右下の和」に基づきますが、ヒューマンは和の概念がなく、「右善左悪のヒューマン・ライツ」をシェアしています日本の標準語は、英単語の「前後左右上下内外大小」をみんな削った下等な言語。日本人が「おかしな日本語」に疑問を持てないのは、幼少期から「鬼」を奪われているからです。二月三夜、日本人が鬼退治の刀と日を下ろし、鬼を肯定すべき夜が来ました。





また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。


━━『マタイの福音書』12章32節 新改訳


 オニ。「ホーリースピリット」。聖書の古い英訳では「ホーリーゴースト」。スピリットを正しく訳せば【魂】、ゴーストを正しく訳せば【鬼】。日本人は鬼退治を続けていますが、儒教の「鬼神」は、【徳の盛んな神】です。漢字の「鬼」は、【肉体のない幽霊】です。本当の風水は【鬼門と裏鬼門】が存在しません。なのに、日本書紀の最初の神トコタチは「鬼門の神」と呪われています。同時に、お稲荷さんの祝詞ではトコタチが「天地開闢の唯一神」と称えられています。伊勢神宮や京都や東京や鎌倉は「鬼門封じ」に支えられています。鬼退治は「陰陽師の安倍晴明」が出てきますが、本物の陰陽に【陰陽道と陰陽師】は存在しません。たましいは二つあります。鬼入りの「陽の魂(コン)」「陰の魄(ハク)」。けれど、日本人は「陽の魂」だけを語ります。本当の陰陽はバランス重視で、「陽が良い、陰が悪い」は精神に有害な思想です。「朝廷」は国の陰陽を整える場でしたが、日本の朝廷━━天皇や皇族や貴族━━は陰陽を乱す害悪でした。「幕府」も「政府」も陰陽を乱す害悪。今の日本人が言う「太陽」「陰キャと陽キャ」もバランスを乱す害悪です。日本の神道や仏教や陰陽道は、政治に忖度したカルト団体。日本に「立派な伝統文化」と呼べる宗教はありません。日本建国前、唐帝国に「大秦(ローマ)」のクリスチャンが寺を建てていました。京都や米の神社や酒の神社を作った「秦氏」は、間違いなくクリスチャン。日本のお上がクリスチャンを隠ぺいようとした結果、「鬼」でない「オニ」が生じました。人はどんな罪や冒涜も「前与(ぜんよ)」━━ゆるし━━を与えられますが、「聖なる鬼」に逆った発言は、決して前与されません




地は茫漠として何もなかった。闇が大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた


━━『創世記』1章2節 新改訳


 ルーアハ。聖書の「上」なるスピリットにしてゴースト、原語「ルーアハ(רוּחַ)」は女性名詞の「魂(鬼)」です。中華の「魂」は陽に属し、「上」も陽の属性ですが、「下」と「女」は陰の属性です。ルーアハは「風」「息」とも訳される言葉。ルーアハの【レーシュ(ר)】【ヘット(ח)】を本当に知っていれば、鬼退治など心に浮かびません。天地創造の第一日、鬼なる魂が「原初の水の上」を動いていました。第二日、「原初の水」が上下に分けられ、その間に「良くない空」が造られました。天地創造は「空」の日だけ、良しとされない日です。『出エジプト記』。モーセが手を「海の上」に差し伸べると、「東の魂」は海を二つに割りました。再びモーセが手を「海の上」に差し伸べると、海は元通りになり、太陽の国エジプトのファラオと軍隊を溺死させました。日本で言うなら、安徳天皇と平家と神器を海に沈めた「壇ノ浦の神風」が、ルーアハです。太陽の君臣が溺死した後、マリアの背子(弟)モーセは後継者にヌンの子を選び、「ヨシュア(イエス)」と改名しました。後にマリアの子イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時、諸天が裂け、「上」から鳩の姿をした「鬼なる魂」が下りました。字の発明は歴史の始まり。字を発明したシュメールとエジプトは、「原初の水」のナンムとヌンから神話を始めます。この鬼なる魂は、ナンムとヌンの「上」にある風、シュメールやエジプトの原初の神を上回る力、歴史の原点を上回る力です。「ヌンの子イエス」は、エジプトのヌンの上にある者。マリアの子イエスも、エジプトのヌンの上にある者。しかし、神話に詳しい日本人でも、シュメールと日本をオカルトで結びつけ、高等魔術でエジプトの神々を崇め、失われた神器があると信じます。漢字や梵字や神器を伝統とする日本人にとって、「シュメールやエジプトの原初の神より上の魂(鬼)」「色即是空より上の上の魂(鬼)」「天皇と神器より上の風(鬼なる魂)」は、遠くて理解できません。なぜユダヤ人がアメリカの支配層なのか、なぜユダヤがエジプトの太陽より上なのか、なぜ歴史の浅いアメリカが歴史ある日本より上なのか、なぜ現代日本語が英語の誤訳に過ぎないのか。それは、神話や歴史や言語を超えるルーアハの力です。スピリットと鬼は同じものです。日本人が「スピリットと鬼は関係ない」「英語と日本語は関係ない」「鬼は退治できる」と考え続ければ、日本は下の下の国家で、日本人が下の下の人種で、日本語は下の下の言語という下は続きます。その下は地獄につながり、その上は天国につながっています。




We don't have a soul. We are a soul. We have a body.


わたしたちはソウルを所持していない。

わたしたちがソウルなのだ。

ソウルなわたしたちこそ肉体の所持者である。


━━ジョージ・マクドナルド(J•R•R•トールキンやルイス・キャロルの師匠的な人物)



 ネフェシュ。聖書の「下」なるソウル、原語「ネフェシュ(נֶפֶשׁ)」は女性名詞の「魄(ハク)」です。ネフェシュの【ヌン(נ)】【フェー(פ)】【スィン(ש)】の三字を本当に読めるなら、全て分かります。ギリシャ語では女性名詞の「スーへー(ψυχή)」、俗ラテン語では女性名詞の「プシケー(psyche)」と呼ばれます。漢字の「魄」は陰のたましいで、骨肉を作る力。ネフェシュは「魄」に似て、血そのものと等価です。敬虔なユダヤ人が「血抜きの肉」を食べるのは、ネフェシュを尊ぶ「法」のため。ユダヤや西洋や中東は「法」が基本で、東洋の「教」に該当する言葉が存在しません。日本の「教」による翻訳は全て誤訳です。魄なるネフェシュは「(生き)物」「息」「いのち」とも訳され、地上の生き物や空の鳥の「いのち」を数える単語。また、魄なるネフェシュは「人」「者」とも訳され、人数を数える時に用いられます。つまり、魄なるネフェシュを知らなければ、人や獣や鳥の命を知ることができません。ネフェシュは海中のタンニーン(海の怪物、ドラゴン、リヴァイアサン)と同じ第五日に創造されました。タンニーンは、日本で言う「竜宮城の竜王(ヤマタノオロチの別名)」、出雲で言う「神在月の龍蛇様」に該当しますだからヤマタノオロチを退治してその尾から神器を奪う国、ヤマタノオロチの子(酒呑童子)を刀で殺し刀を尊ぶ国、十月が「神無月」で神々がいなくなる国では、魄なるネフェシュを正しく認識できません。渡辺綱は宇治の橋姫━━『大祓』の瀬織津姫(セオリツヒメ)の化身━━を「鬼女」と決めつけ、その右腕を刀で斬りました。源頼光は刀で土蜘蛛を斬り、伊吹大明神(ヤマタノオロチの別名)の子、伊吹童子(酒呑童子の別名)を刀で斬りました。これらは『平家物語』剣巻で「鬼切」「蜘蛛切」と呼ばれ、「草薙剣に次ぐ二刀」と物語られます。本物の草薙剣は壇ノ浦の戦いで失われたため、「沈んだのはレプリカだった」「鬼を切る刀が草薙剣に次ぐ刀」という嘘物語が作られました。今の神器は偽物のため、明治・大正・昭和・令和の天皇も神器のフタを開けたことがありません。それに、本物の天子(皇帝)は、天命や徳や姓による地位です。日本語の「徳」はお金を意味するまがい物で、儒教の「徳の盛んな鬼神」を称えません。偽物の天子である天皇は、天命や徳を問われたことがなく、神器や家名がありません。本物の国体(憲法)は、総投票によって制定・更新される生きた制度です。偽物の国体である日本国憲法は、天皇や総理や大臣が【国民投票なしに発布】し、「国民の総意による天皇」を偽造した悪法で、一度も改正されていません。天皇の地位は全て不正なもの。どんなに美化しようと、たましい=いのちを奪う刀剣は、不吉な武器に過ぎません。天皇や源氏や武士の根拠が「刀剣」なのは、「人」としてまがい物です。この島の人々が真のいのち=たましいを知るには「剣は天皇の証でなく、刀は武士の魂ではなく、神話伝説の竜退治と鬼退治は嘘だった」と共有する必要があります「神器のフタを開ける」「憲法の廃止と新国体の制定」も必要になるでしょう。




わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのち(soul)までも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。


 ━━『ルカの福音書』14章26節 新改訳


 丑。ウシは聖なる生き物です。ミケランジェロのモーセ像は「二本の角」が生えています。コーランのイスカンダル(アレクサンダー)は「二本角」と呼ばれています。本物の風水に「鬼門と裏鬼門」はなく、本物の陰陽に「鬼退治の陰陽道」も存在しません。シャカのファミリーネームを「ゴータマ」と言い、その意味は【最高の丑🐮】です。インドは今でも丑を聖なる動物として尊び、童子は梵天(ブラフマン)の化身です。ですから、丑の角ある鬼の童子とは、インドならブラフマンの化身、仏教ならゴータマの化身ということになります。また、貴船神社の社記では「丑の年、丑の月、丑の日に貴船大明神が天降りされた」と伝えられます。いわゆる「丑の刻参りの鬼女(宇治の橋姫)」は貴船神社に「七日」参拝し、宇治川で「三七日(3×7=21日)」禊を行った貴族の女性と伝えられます。西洋も中東もインドも「三」「七」は聖数です。宇治の橋姫は、祝詞『大祓』の女神セオリツ姫と同一視される姫です。つまり、聖書やコーランや仏教や風水や陰陽や祝詞は「三が悪い」「七が悪い」「丑が悪い」という根拠になりません。渡辺綱や源頼光が「丑角の鬼」を斬った実行犯だとしても、その助言者が陰陽師の安倍晴明でも、それらは偽物の天子、天皇家の都合による命令であり、一番悪いのは天皇家です。誠に残念ながら、日本の仏教や風水や陰陽、それに儒教や国学は「偽帝に忖度した偽物」に過ぎません。西洋は「兄弟姉妹」「皇の人称」「帝の人称」「先の人称」「大の人称」「主の人称」「公の人称」「民の人称」「教の人称」「学の人称」が存在しません。日本語の人称はまがい物で、日本人同士の偽コミュニケーションは、何の現代性もありません。日本人の先祖と先生と先輩は「ウシすら読めないバカとアホ」だけ。日本人の親子は「鬼退治や節分をやるべきか」と話し合って選択しません。日本人の霊魂観は、人並みの知性がありません。ヘブライ人の天王キリストは、自分のファーザー、マザー、ワイフ、チルドレン、ブラザーズ、シスターズ、自分のソウル(ライフ)を憎まない者は、自分のフォロワーになれないと言われました。わたしは無神論の家庭と学校で育ちましたが、あまりにも日本語がアホらしくバカらしいので、自分の意志でキリストの後についていきます。この道は、教えのないイバラの道で、団体や組織のないケモノ道ですが、“先”のない“前”の道は「狭き門」があるはずです。もし、あなた自身が周囲に流されず、自分の頭で考えるとしたら、「ウシ」は不吉でしょうか、神聖でしょうか。



『奇跡のコース』レッスン97 「わたしはスピリットだ」




 ここまで読んでくれた方に感謝を。

 いいねを押してね!(圧)

 フォローしてもいいよ!(圧)

 

 またね。