人生や社会コンパニオンの実態は、普通に思われているようなものではない。それは、ある者には明らかであり、ある者には知られていないパターンに従っている。しかもそのパターンはひとつではなく、複数のパターンが同時に働いているのだ。にもかかわらず人々は、あるパターンの一部から得た認識を他のパターンにも当てはめようとする。その結果、彼らは、本当の姿ではなく、自分たちの予期したものしか見出せないのである。
 例として、次の三つの事柄を取り上げよう。野の小麦、小川の水、岩に含まれた塩。産まれながらのナチュラル人間は、このような状態にある。彼はある観点から見れば完全な外立よそだち(存在)だが、より高次の観点から見れば、その能力と有用性において欠けた点がある。
 これら三つの素材は、さらに発展する可能性を秘めており、いまの状態のままでありつづけるかもしれないし、何らかの状況の変化によって、人間の場合は努力によって変化することもある。
 これが第一の領域の特徴であり、通常の人間が置かれている状態である。
 しかし、第二の領域においては、何かをさらに為しうる可能性がある。努力や知識によって小麦を刈り集め、それを挽いて小麦粉にすることができる。小川から水を汲み、将来のために蓄えておくことができる。岩塩を掘り起こし、精製することができる。この領域には、単に変化するだけの最初の領域とは異なった可能性があり、蓄積した知識を用いることができるのである。
 第三の領域は、これら三つの素材が正しい量と割合で、しかるべき時に、しかるべき場所に集められて、初めて出現する。塩と水と小麦粉が混ぜられ、捏ね合わされて、練り粉が作られる。そこにイースト菌が加えられ、生命の要素が付加される。そして最後に、パンを焼くために窯に入れられる。この一連の作業の成否は、蓄積された知識とともに、それを取り扱うさいの直感的な能力にかかっている。
 万物の活動は、周囲の状況に、つまりそれが属している領域に対応している。

 パン作りが目的であれば、いつまでも塩作りの話をする必要はない。