無限の毎日

無限の毎日

佳奈の日々の気づきブログ

母校の高校野球観戦をしてきました

 

ただただ感慨深い…

 

高校生のお兄さんたちから

同世代目線

社会人目線

そして今は母目線…

 

スライディングのホームから素早く体を起こし

大きく腕を振って次のホームに体を傾ける土まみれのランナー

 

スタンドからの華やかな声援

 

田んぼの四季を眺めるのと同じ感覚

 

田んぼのイネたちが青々と美しく輝く季節

用水路を流れるキラキラと澄んだ水、涼しげな音

 

夏ですね…

 

移ろいゆくひとこまひとこま

 

いつだって子どもたちから純粋性を奪わない母でありたいです

親がすべきことなんて与えるよりも奪わないこと…それだけだとつくづく感じました

 

 

職務評価なるシートが定期的に配られる

 

人間は子どもの頃からなにかとつけて評価を突き付けられ

評価されるという事に慣れすぎてしまっている気がする

 

私はこの評価には子ども頃から違和感だった

 

さほど人のことなど見ていないくせに…

評価がよかろうか悪かろうが、私はこのシートをあてにしていない

ようは、誰かのさじ加減で時給が上がるというだけの評価だと思っている

 

「評価」を辞書で調べると

①品物の価格を定めること。また評定した価格。「―額」

②善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること。特に、高く価値を定めること。

 

宝石の場合は宝石商が評価すればいい

芸術の場合は美術商が評価すればいい

 

では人間の場合は?

誰が?と思う…

この評価の判断を誰が下すのか?

何人で下すのか?数人の場合は多数決なのか?

どれくらいの価値がある人が誰を評価できるのか?

 

私はいつも思う…

自分ほど自分を客観的に観察しているモノはいない

ここに自信がある以上、人の評価というのは気にもならない

なにか一定のデータに基づいてとか

仕事内容が細かくデータ化されているとか

比べる基準が定まっていれば少しは分かるけれど

 

自分が誰かを評価できる人間だとは思いたくもない

 

吉田松陰先生だって塾生を簡単に評価したりしなかったのではないか

評価というより、個々の本質を見抜く観察をしていたのではないか

それをするのはまず内観が必要になる

自分自身をも客観的に捉え、偏らない観方ができなければならない

 

自分で自分の観察もしていない人が、自分以外の誰かを評価するというのはおかしな話だと思う

 

ゼロリスク思考の若者が増えているとネットニュースになっていた

 

ニュースでは恋愛や結婚においてのリスクが取り上げられていた

 

対人間の感情というリスクを負うくらいなら進化した3DAVを観ていたほうがリスクがない、と言ったコメンテーターが進化した3DAVを観ている姿を想像をしてしまった…

 

気持ち悪い

 

以前風俗に行った人の話を聞いて、その具体的な内容の想像が頭から離れずその人を見る目が変わってしまったことがある

 

風俗が好きな人は好きだし、誇りを持って働いている女性のことを考えると偏見だと思うけれど

 

正直やっぱりなぜか気持ち悪い

 

細かく分類されたAVのジャンルから好みを選ぶ姿というのも…やっぱり気持ち悪く感じる

 

レストランで食べたいメニューを選ぶのとはわけが違うと感じるのはどうしてか…

 

あ、もしかしたら…誰にも見られていないとなると、突如暗闇で卑猥なメニューを開いて目を輝かせる姿が他の動物にはない人間の本性のようでキモ怖いのかもしれない

 

恋愛や結婚は、行動やお金の面で自由を奪われることと想像して、それをリスクと感じる人は多いだろう

 

それは単純に他者がお荷物になるかもしれないということ回避だろう…

 

お荷物を一緒に持つことが共存かと思いきや、一緒にいることは相手をお荷物と感じるのか…

 

パイロットが孤独な旅に出掛けられるのは、高い空から地球で生きる人々の光が見えるからと聞いたことがある

 

視野の違い

 

他者との関りをリスクと捉えるのは、フォーカスしている視点の問題だろう

 

確かに人付き合いは面倒な面もある…それはプライドや劣等感から周囲を見ている人との関りだけど

 

全てを体についている色眼鏡をかけた目から観察していては視野が狭い

 

いろんな意味で脳に支配されてしまっている人間