207回目のブログ: 「良し悪し」と「好き嫌い」 | 毎日何かを見つけたい!転んでもタダでは起きない!◆40代ワーママ

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たくさんの考え方や価値観がある中で、みんなが自信を持って意見を言い合い、よりよいところを目指していく、、、そんな世界になったらいいなぁ。

職場やPTA、異なる価値観や考え方の中で日々感じたことを書いています。

おはようございます。

 

将来に向かうための

自分の棚卸しの項目に

「好き・嫌い」も入れたのですが、

 

この「好き・嫌い」を考えるときに

いつも「良し・悪し」との違いに

悩みます。

 

 

例えば

人を傷つけてはいけない

ということは

 

好き・嫌いではなく

良し・悪しになると

思うのですが、

 

これがもし戦国時代だったら

傷つけるどころか

首をとってくることが

手柄になったりも

したわけです。

 

 

また、

数十年前の日本では

女性は家に入ることが

当たり前で、

 

結婚していない女性は

本人の意向に関わらず

結婚「できない」という

レッテルを貼られ

 

良くないこと、と

されていましたが

 

今では

結婚するかしないかは

個人の自由という

認識に変わりました。

 

 

しばしば

「今どきの若者は」という

言葉で現わされるようなことは

 

もしかしたら

当時は「良し・悪し」の判断

だったものが、

 

いまでは「好き・嫌い」の判断

に変わったものなのかも

しれません。

 

 

こんなことを考えていて、

「良し・悪し」と「好き・嫌い」の

境界線がよく分からなく

なるのです。

 

 

先に挙げた結婚のように、

祖母や母の話から聞く

当時の女性に関しての

制約(「良し・悪し」)は、

 

一部根強く残っている

雰囲気はあるものの

 

今では「好き・嫌い」に

変わっていると思います。

 

 

こう考えると

「良し・悪し」よりも

「好き・嫌い」で考えた方が

 

窮屈ではなく

幅が広がっていくような

気がします。

 

 

 

そして画一的な「良い・悪し」の

判断基準は

必ずしも自分の中から

生まれたものではなく、

 

生まれたときから

当たり前に存在していて、

だれもがそれに従っているから

自分も何の疑問も抱かずに

過ごしているということが

大半なのだと思います。

 

だから、それに疑問を抱く

一部の例外を除いては、

 

同じ判断基準の中にいて、

みんなの当たり前が同じですから

他者との関わりが

楽だったのではないかと想像します。

 

 

そうした、

数十年前の日本のように

 

多くの人に共通する

判断基準がない今、

各人が自分の判断基準で

考え、行動しないと

いけなくなっています。

 

 

そうすると

十人十色の判断基準が

生まれてきて、

 

そこには摩擦や衝突も

生まれてくるでしょう。

 

 

その摩擦、衝突を避けていては、

多彩な判断基準が存在することで

拡がる世界が

 

逆にタコツボ化して

閉鎖的になってしまう

かもしれません。

 

摩擦、衝突を避けるのではなく

どう受け止めるのか、

 

周囲の判断基準に振り回されず

自分の中にある判断基準に

従いながら

 

自分の世界を閉じることなく

どう拡げていくのか

 

自他の区別をつけながら

どう融合していくのか。

 

 

 

話が拡散してしまいましたが、

 

好き・嫌いを考えつつ

好き・嫌いに縛られて

却って判断を狭めることなく

判断基準を拡げていけるよう

 

意識のバランスを

取っていきたいと思います。

 

 

 

【今日のまとめ】

 

「良し・悪し」よりも

「好き・嫌い」を元にした

判断基準は

 

自分の内側から

出てきたものであるという点で

 

窮屈ではなく

拡がりがあるように感じる。

 

 

一方、個々人が好き嫌いによる

判断をすることで生まれる

摩擦や衝突を避けていては

 

自分と同じ判断基準の人だけとの

付き合いになる可能性があり、

 

却って世界が狭くなってしまう。

 

自分の内側からの

判断基準を大切にしながら、

 

異なる判断基準との

融合、調和を図ること。

 

バランスを意識していきたい。