2025年9月22日(月) 2

第1章:蒼の記憶 ― 入院の夢路

真壁誠一の人生には、常に「病」と「生」の境界が影のように寄り添っていた。
学生時代には骨折やアキレス腱断裂で病院のベッドに横たわり、幾度も点滴の管を見上げた。自衛隊に入ってからは、健康管理が徹底していたこともあり、内視鏡でのポリープ切除や痔の手術を経験し、短期から長期まで、数え切れぬ入院歴を積み重ねてきた。退職後には人間ドックで「癌に近い」とされた胃のポリープを切除し、さらにピロリ菌の駆除まで受けることとなる。
それらは一見すれば小さな挿話の連なりにすぎない。だが、誠一にとっては確かに「死を意識する瞬間」でもあった。

そして、運命は遠いフィリピンで大きく牙を剥いた。
イリガンの街角で交通事故に遭い、頭部に致命的な外傷を負ったのだ。救急車のサイレン、混乱する現地の人々の声、そして冷たい手術台――そこから先は断片的な記憶に過ぎない。

9月12日、頭蓋骨の内側にたまった血を脳から抽出する手術が行われた。誠一はICUに収容され、十数日にわたる生と死の狭間を漂うこととなる。
意識は戻っていたが、脳に管を通されたまま、十日で三百ccもの血を排出し続けた。

その間、彼を支配したのは「夢」と「幻覚」だった。
眠れば同じ夢が繰り返される。ベッドに寝たまま、看護師に注射を打たれると、身体はふわりと宙に浮き、病室を漂う。やがて視界はジオラマのように変容し、澄んだ小川にヤモリのような影が泳ぐ光景や、深海を悠然と進むサメやマグロの群れが現れる。

目を開ければ、そこにあるのは現実ではなく幻視だった。
天井に広がるはずの白い壁には、アラビア語とも古代中国語ともつかぬ文字列が黒と赤で刻まれ、決して消えない。看護師に問いかけても「何もありません」と返されるばかりだ。
シーツには子犬の模様が浮かび上がり、機材のラベルは目となり、じっと彼を見つめ返してくる。備品はゆっくりと動き出し、擬人化された影たちが彼の世界を侵食する。

そして、幻聴。
病室の外からは、誰が流すとも知れぬ美しい音楽が聴こえていた。それはあまりに優しく、彼をこの世に繋ぎ止める最後の旋律のようでもあった。

やがて9月24日、ICUから一般病棟へ移された頃には、夢も幻覚も消え去っていた。
だが誠一の心に残った感覚はただ一つ――「あれは、あの世の予感だったのではないか」という確信である。

その夜空の星々も、未来都市の夜景も、未知の言語も、すべては「死」と「生」の境界で垣間見た世界。
真壁誠一は、その体験を「魂の実録」として胸に刻み込んだ。