自民党総裁選 今昔物語 | 三宅久之オフィシャルブログ「三宅久之の小言幸兵衛」Powered by Ameba

自民党総裁選 今昔物語

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  民主党の代表選、自民党の総裁選は、目下同時進行で戦われているが、民主党は細野剛志原発担当相の出馬断念で、野田佳彦首相の独走となり、21日の投票日を待たず再選確実の見通しとなった。一方、自民党は石原伸晃幹事長の出馬表明で、(小言幸兵衛の)予想通り谷垣禎一総裁が断念に追い込まれたが、5氏の乱立で勝敗の行方はまだ見えない。

 

 しかし、199票を争う国会議員票の争奪戦では、推薦者、候補者を除く一般議員票は僅か94票。地方党員票300票の行方が勝敗を決めるが、第1回投票では過半数を制する候補者は現れない見通しで、自民内の関心は安倍晋三、石破 茂、石原伸晃の3氏がどのような順位になるか、2~3位連合が成立するかどうかにしぼられてきた。(1~3位連合の可能性もありうる)

 

 1955年自民党が結党されて以来、総裁選で決選投票が行われたのは3回で、1960年、1972年のケースでは、第1回投票でそれぞれ1位となった池田勇人、田中角栄が決選投票でも票を伸ばして当選。2~3位連合で1位を覆したのは1956年の1回だけである。

 

 この時は初代総裁、鳩山一郎の引退に伴うもので、自民党にとって初の実質的公選だった。岸信介幹事長、石井光次郎総務会長、石橋湛山通産相の3氏が立候補。当時の規定による有権者は党所属国会議員と都道府県支部代議員各2名、あわせて500余名であった。

 

 岸最有力というのが、政界、マスコミ界の前評判だったが、「岸が第1回投票で過半数をとれないこともある。その場合2~3位連合を組めば決選で勝てる。」と読んだのが、石橋陣営の参謀を務めた石田博英(小沢ガールズ 三宅雪子の祖父)であった。両派を代表して三木武夫(石橋陣営)池田勇人(石井陣営)らによる水面下の話し合いが党大会前夜まで続けられた。

 

 1956年12月14日朝、東京會舘で開かれた両派の会合の席上、小沢佐重喜(小沢一郎の父)が両派を代表して「決選投票となった場合、石橋、石井のいずれであれ、上位となった者を全力で支持する」と宣言、一同了承して党大会の開かれる産経会館へ向かった。

 

 第1回の投票結果は、投票総数511、岸信介223、石橋湛山151、石井光次郎137。この結果、直ちに決選投票が行われた。投票総数510、石橋258、岸251、無効1となり、僅か7票差だが、石橋が逆転、第2代自民党総裁の座についた。

 

 石橋新総裁は組閣に当たって「党内融和のため、岸、石井両氏の入閣を求める」との方針を打ち出した。岸は潔く敗北を認め、新総裁へ積極的な協力を約束、外相として入閣した。しかし、石橋内閣成立の最大の功労者だった石井は、派閥内で活発になった猟官運動を抑えることができず、押し出される形で入閣を見送った。

 

 石橋内閣は積極財政を打ち出し、国民から熱狂的に迎えられた。ところが1957年1月、脳梗塞で倒れ、国会を召集しても登院出来ないため、2月22日「政治的良心に従う」と辞意を表明。2月25日の両院議員総会、衆参両院本会議で、岸外相がスンナリと後継首班に指名された。石井はこの岸内閣で、ようやく無任所国務相(副総理格)として入閣した。

 

政治の世界で「たら、れば」はないとしても、もし石井が石橋内閣で副総理として入閣していたならば、と考えると、その後の政界地図はかなり変わっていたかもしれないと思う。今回の自民党総裁選は近い将来の総理を決める戦いだが、各陣営が、決選後のシナリオをどう描いているかも気になるところである。(敬称略)